作家の三島由紀夫(1925~70年)が監督・主演した映画「憂國」(65年)のネガフィルムが現存していることが分かった。陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で割腹自殺をとげた三島。映画には、三島が抱懐したエロスや死が如実に反映している。自決以後封印されてきた“幻の映画”が、三島研究に新たな光を投じることになりそうだ。【米本浩二】
「憂國」は60年に発表された三島の同名小説を原作に三島が出資して製作した35ミリのモノクロ映画(28分)。2・26事件に参加できなかった陸軍中尉(三島)が妻の眼前で切腹し、妻も短刀で自害する。せりふはなく、簡素な能舞台で演じられ、字幕を使用。全編ワーグナーの音楽が流れる。
66年に封切りされ、ツール国際短編映画祭や国内上映などで人気を博した。三島の自決後、ネガは行方不明になったと考えられていたが、瑤子夫人没後の96年、「憂國」のプロデューサーを務めた藤井浩明さん(78)が東京・大田区の三島邸の倉庫奥で、夫人の嫁入り道具の茶箱の中にあるのを見つけた。
密封保存されたネガは、日本、英語、フランス、ドイツ版など約30巻。傷もカビも免れて良好な状態という。この夏、「ネガ現存」を明かした藤井さんは、「粗悪な海賊版が出回っており、作品本来のよさを分かってもらうにはニュープリントで上映するしかない。今年は三島生誕80年にあたり、節目だとも思った」と語る。
小説「憂國」は三島が「私という作家のいいところも悪いところもひっくるめて、わかってもらえる」(「製作意図及び経過」)というほど気に入っていた作品。「潮騒」など自作の映画化に際しては内容を映画会社の裁量にまかせてきた三島だが、「憂國」だけは自分の手で映画にしたかったらしい。
性と死の劇を抽象の高みへ押し上げた能舞台が効果的。三島は「自然の中における人間の植物的運命の、昂揚(こうよう)と破滅と再生の呪術的な祭式に似たもの」(同)を目指したという。特にワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が映像を引き立てる。「切腹の苦痛さえ、そこでは不思議な音楽のエロチックな陶酔の中に巻き込まれ、ましてベッド・シーンは音楽のおかげで最高度に浄化された」(同)
映画「憂國」は「決定版 三島由紀夫全集」(新潮社、全42巻)の別巻として来春DVD化される。生前の三島が「『憂國』映画版を全集に入れたい」と語っていたのを受けてのことだ。藤井さんは「私は映画プロデューサーとして200近い作品を世に送り出したが、『憂國』は最も愛着のある作品。いつ観(み)ても簡素で迫力のある画面に引きつけられる。映画として正当に評価してほしい」と話す。一般上映やビデオ化も検討している。
◇“本来の自己”に帰った三島
三島文学に詳しく、三島全集の編集にも協力している佐藤秀明・近畿大文芸学部教授の話 全集の企画段階から映画「憂國」を入れたいと主張してきたので感無量です。小説「憂國」は、三島由紀夫が“本来の自己”に帰る欲望を描いたものだと私は考えています。それを自ら演じ、監督したことで、欲望の表現として完結したものになったと思います。
毎日新聞 2005年9月13日 東京夕刊