◇暴力と憎しみの時代を生きる
<このコラムは作品のラストにも触れています。ご承知の上お読みください>
オープニングから出てくる意味深なニケの像の意図の見えにくさ、事件が起きた時にパレスチナの少女の写真が落ちて割れてしまうわざとらしさ……。何度か首をかしげるシーンや映像がある。が、それにもかかわらず、この映画には力がある。昨今流行の声高に愛を叫んだり、大泣きさせようとする力ではない。まばたきすら許さないような映像の力にひきつけられる。
画面はいたって静かで、人物描写もどちらかといえば淡々としている。それは殺人事件の後も変わらない。殺人のシーンは見せない、あっけなく簡単に死んでしまう。カメラは死んだ妻、亜弥子の姿をそっと映し出すだけで、葬儀や遺体に向かって号泣したりするシーンなどはない。観る側は自然にそんな光景を思い描き、悲しみを想像する。
夫も母も友人も悲しみを抱えてはいるが、なんとか日常を生きていこうとする。だから余計に、事件の前よりも後のほうが日常性が強調される。その姿には静謐(ひつ)な感覚すら漂う。そして、しだいに被害者の夫である民郎(たみお)の心の葛藤が伝わってくる。静かに、誠実なまでに揺れ動く復讐への葛藤。観客は、しだいにその葛藤を共有し始める。
復讐(しゅう)と日常の中でその葛藤は膨張する。時に挿入される民郎と亜弥子の愛情の日々に感情を刺激され、やっとつかんだ2人の安らぎの日々を奪った事件に怒りを覚えはする。しかし、そんな感情移入は、民郎の抑え切れない気持ちとそれを打ち消そうとする日常の前で簡単に打ちのめされる。周囲に励まされ写真館の仕事を再開しようする民郎の描写などに強いリアリティを感じるからだ。
そして、衝撃的なラストシーンを迎える。民郎は、親友やその妹で民郎を支え、愛し続けているマリ、近所の仲間が集まる居酒屋の前でタクシーを止める。映画は、民郎が車内から日常生活をともにしてきた仲間たちを鋭いまなざしで見つめて終わる。このまなざしの先に何が見るか、何を見ようとしているかは観客に委ねられている。
冒頭、力があるとしたのは、多様な意味を込めてのことだが、その一つはこの静かな映画のいくつものシーンが心から離れないからだ。説明的なセリフでしか物語を語れない映画が増える中で、登場人物の感情や生き方がわずかな表情、動き、あるいは風景から伝わってくる。
民郎を演じる浅野忠信のキャスティングを、筆者は恥ずかしながらこの映画が始まって数分間は「民郎ではなく浅野のインパクトが強すぎて、ミスキャストでは」と思っていた。しかし、それは浅はかな心配だった。この難役を見事に演じきっていた。前述のラストシーンの表情はわずか数秒とはいえ、民郎の心だけでなく、復讐(しゅう)という感情に対峙(たいじ)した人間のやり場のなさ、自らへの不信、あいまいさ、虚無感など複雑な心情を表現していた。
日向寺太郎監督は、デビュー作ながら地味できわめてハードなテーマに、まさに身を投入した。暴力と向き合い、愛するものの死により残されたものの痛みと葛藤を描くことで、監督自身が暴力と対峙しようとしたのである。
この監督は、今まさに私たちの目の前で拡大しつつある暴力と憎しみの連鎖、その姿に迫ろうとしたのであり、新人監督としての熱い心意気をも感じる。世界各地で続く戦争や虐殺から、最近は電車内や駅ホームなどで見かけるけんかまで、その幅は広いが、根底に流れる暴力というものの一端を見ようとしているのだ。
キャストやスタッフも新人の監督作品とは思えないほど素晴らしい面々が結集した。なかでも、日本映画界の名手、撮影の川上皓市は手持ちカメラで民郎の揺れ動く心の不安定感を描き出したという。それは、民郎の視点だけではなく、すぐ横を暴力が駆け抜けている時代に生きる私たちの呼吸が聞こえてくるような映像でもあった。
この作品は、はっきりいって、映画を観ている時だけ楽しければいいという人にはお薦めしない。骨のある、心に響く映画を見たいという方にはぜひ観てほしい。そして、また一人、日本映画界に次作を心待ちしたい監督が登場したことを付け加えたい。
(10月15日から東京・渋谷のイメージ・フォーラムでロードショー、順次全国公開予定)
※なお、近く日向寺太郎監督のインタビューも竹橋シネコンに掲載する予定です。
【鈴木 隆】
「誰がために」
2005年/日本映画/97分/パル企画、マジックアワー配給・宣伝
企画:深田誠剛 プロデューサー:有吉司、河野聡、多井久晃、大橋孝史 原案・監督:日向寺太郎 脚本:加藤正人 撮影:川上皓市 録音:弦巻裕 美術監修:木村威夫 照明:尾下栄治 美術:丸尾知行 編集:阿部瓦英 音楽・矢野顕子
出演:浅野忠信、エリカ、池脇千鶴、小池徹平、宮下順子、烏丸せつこ、小倉一郎、香川照之、眞島秀和
公式ホームページ
http://www.tagatameni.com