太平洋戦争末期、地上戦が避けられなくなった沖縄にスパイ養成機関の陸軍中野学校出身者が多数、送りこまれていた。ジャーナリストの三上智恵さんと大矢英代(はなよ)さんが共同監督した「沖縄スパイ戦史」は、彼らが暗躍した、沖縄戦の「裏の戦争」の真相をえぐり出すドキュメンタリー映画だ。
陸軍中野学校を出たばかりの若き将校たちが沖縄の本島や離島へ配属されたのは、1944年9月以降。その数は42人にも上ることが、沖縄県名護市教育委員会市史編さん係の川満彰さんの調査で突きとめられている。
川満さんの著書『陸軍中野学校と沖縄戦』によると、彼らの任務は、来たるべき本土決戦を有利に戦うため、捨て石となる定めの沖縄で、米軍の後方攪乱(かくらん)にあたることだったという。
映画は、そのために利用された少年ゲリラ部隊の消息をたどっている。
「護郷隊」と名づけられた部隊は、召集や志願を強制して約千人の10代半ばの少年をかき集めて急ごしらえされた。米軍の上陸後、戦車の爆破や敵陣への突撃を命じられ、生きのびた元隊員は「死んで親を悲しませるぐらいなら、生まれてこなければよかったと思った」と証言している。わざと米軍に降伏し、捕虜収容所に爆薬をしかける特殊任務も仕込まれていた。
160人が戦死した護郷隊は、地元民を「管理」するための手段でもあったと三上さんは語る。「我が子が死に物狂いで戦っているのに、米軍に投降する親はいません。乏しい食料も進んで供出する気になる。部隊と一心同体になるよう仕向けられたのです」
映画はさらに、戦火が及ばなかったのに島民の3分の1にあたる約500人が命を落とした、沖縄県南端の波照間(はてるま)島の悲劇を検証する。マラリアが蔓延(まんえん)していた西表(いりおもて)島へ全島民が強制移住させられたために病死したのだが、その指揮をとったのも陸軍中野学校出身の将校だった。
その存在意義が国体護持にある限り、軍隊は、自国民を守るどころか手駒のように利用する。本土決戦でも、その戦闘方針は推し進められただろうと三上さんはみる。
大阪・十三の第七芸術劇場、京都市の京都シネマで4日から公開。(保科龍朗)