「夕張の炭鉱は250年以上掘れる資源がある。子や孫、ひ孫の代まで続く、会社のため働いてほしい」
1956年、18歳で北海道炭礦汽船(北炭)夕張第一鉱で働き始めた安部秀一(ひでいち)さん(81)は、こう訓示を受けたのを覚えている。250人の中から選ばれたのはたったの20人。厳しい選考をクリアしての採用だった。
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この4年後、夕張市の人口は最多の11万6908人になった。「盆踊りの輪が何重にもなって。商店街には人がひしめいて身動きもとれなかった」。炭都・夕張の最盛期だった。
夕張の繁栄は鉄道が支えていた。安部さんらが1日8時間ずつの三交代労働で休みなく掘った石炭は、鉄路に乗って室蘭の製鉄所まで運ばれていった。
「貨車がものすごい列になって。20両くらいあった。蒸気機関車も1両じゃ足りず、2両で引っ張っていた」
安部さんは幼いころ、新聞配達で家計を支えていた。朝4時半には夕張駅に向かい、列車に積まれてきた新聞を歩いて配達して回り、その足で学校に出かけるのが日常だった。炭鉱に勤務するようになってからも、荷物が届くのは夕張駅だった。
「どこかに行くのも夕張駅。どこかから帰ってくるのも夕張駅。いつもたくさん人が駅に集まっていた。駅は夕張の玄関口だったね」。夕張市民にとって、鉄道はなくてはならない存在だった。
だが、夕張の最盛期はそう長くは続かなかった。81年には、北炭夕張新鉱のガス突出事故が発生し、93人の犠牲者を出した。坑内にいた安部さんも一時気を失ったが、外気が入る坑道にいたため、すぐに意識を取り戻し脱出。からくも一命をとりとめた。
その翌年、新鉱は閉山になり従業員は解雇に。夕張の炭鉱は90年までに全て姿を消した。250年続くはずだった炭鉱は、あっけなくなくなった。
その後の夕張は迷走した。観光で生きて行こうと、テーマパーク「石炭の歴史村」や、特産の夕張メロンをアピールする「めろん城」などの「ハコモノ」にすがった。
だが、その戦略は裏目に出た。2006年。夕張市は財政破綻(はたん)を表明し、翌年には財政再建団体(現在は財政再生団体)に転落した。市民は借金返済のために、日本一の負担を強いられる一方、公共施設は次々に閉鎖され、公共サービスは切り詰められた。市民は次々に夕張をあとにした。
夕張市は、経営難のJR北海道から提案を受ける前に、自ら石勝線夕張支線の廃止を提案した。バスなどの交通網確保に有利な条件を引き出す「攻めの廃線」とアピールした。
「炭鉱もなくなって、国鉄がなくなった。そのうえJRの線路までなくなるって。日本の縮図だね」
安部さんはやり場のない無念に、苦笑いする。
安部さんの住む夕張市清水沢清栄町には、コンクリート造りの炭鉱住宅が所狭しと立ち並ぶ。しかし、今は人影はほぼ見えない。木で窓をふさぎ、放棄された住宅もあちこちに見える。石炭を満載した貨物列車が終日行き交った鉄路は、一日数往復のディーゼル車が寂しく走るだけだ。
かつて11万人を超えていた夕張市の人口は、今年2月28日現在で8111人。「鉄道が廃止になってしまったら、若い人はここに住んでいられなくなる」
愛する夕張。いつも暮らしのそばにあった鉄道が消えてしまえば、まちの未来も消えてしまうような気がする。そして、こう言った。
「夕張の駅は、まちの中心だった。炭鉱がなくなり、鉄道までなくなるなんて。夢にも思わなかったよ」(平賀拓史)