「どういった練習が理想的か」という話をサッカー選手とすることがあります。個人練習ではなく、グループ練習に関していえば、それは試合という日常の場面が現れる、実戦的なトレーニングでしょう。
ただ、試合と同じような問題点が出て、解決に向かえる設定は簡単ではありません。ただ紅白戦をやって、その問題点があらわれるまで待つのでは、効率が悪すぎます。チームが抱える問題点を頻繁に出させて、適切な対応ができるような設定が必要です。
まず試合に近い状況とは、どういった状況でしょうか。それは、ボールがあり、敵がいて、ゴールがあることが基本です。その基本の上で条件設定を変えながら、チームの力を向上させていくのです。
僕が名古屋グランパスでプレーしていた時の、ベンゲル監督の練習を例にとってみましょう。よくやっていたのは、ペナルティーエリア二つ分のスペース(両側にゴールがある)で、GKを入れて4対4で行ったゲーム形式の練習です。
当初、ベンゲル監督は各選手がボールにタッチできる回数を2回に制限しました。狭いスペースでボールを速く、正確に回すためには技術が必要です。当時の名古屋は選手は技術がお世辞にも高くなく、ボールをつなぐことが決してうまいチームではありませんでした。実際この練習、最初はうまくいきません。そこでベンゲル監督は、制限を2タッチから3タッチに増やしたのです。
後にベンゲル監督がアーセナルを率いていた時に見させてもらった練習では、このトレーニングは必ず2タッチでした。アーセナルの選手たちは最初のトラップで適切な場所にボールを置くことができます。しかし、当時の名古屋の選手の大半は「止める」と「適切な場所に置く」がワンタッチではできませんでした。そこで、まずボールを止めて、適切な場所に置き直し、そこからパス、シュートに持っていけるようハードルを下げたのです。この条件設定の変更によって余裕が生まれ、その後は少しずつ2タッチでもボールを回せるようになり、試合でのパスワークは徐々に向上していきました。
またベンゲル監督は、スペースのサイズや人数も変えていました。例えば、4対4を5対5に増やして、スペースがあまり生まれない状況をつくります。これは、相手にボールを奪われても仕方がない状況となります。こうなると最初のトラップで相手のマークを外しにかかるような、思い切ったプレーが必要です。そのトレーニング中、ベンゲル監督はミスをしても決して怒らず、リスクを冒したプレーはミスをしても褒めていました。
すると選手たちは、普段よりリスクを冒すプレーを選択するようになります。当時の僕は、まず確実さを求め、細かいミスをして印象を悪くしたくないプレースタイル。しかし、この練習ではトラップで相手の逆を取ったり、動きながらボールを受けたりすることで、シュートを打てるようになっていました。結果、そこまでの3年間でたった一つのゴールしか生み出せなかった僕が、ベンゲル監督がいた1995年から96年にかけては、Jリーグとアジアカップウィナーズカップを合わせて、9ゴールも決めることができたのです。
また、しっかりとボールを回すような、逆の条件設定もありました。GKを入れた4対4に、ボールを持っている側の味方になるフリーマンを入れる設定です。ボールを保持しているチームは、常に5対4の数的優位の状況になります。これはリスクを回避しながら相手を崩すことが必要な場面につながります。つまり当時の名古屋は、試合の中で起きる様々な状況に対応できるようにトレーニングしていたのです。
ベンゲル監督の練習は、条件設定は変わるものの、基本的には同じトレーニングの繰り返しでした。ともすれば、選手を飽きさせないよう、バラエティーに富んだ練習を心がける指導者がいるかもしれません。ただ、サッカーはボールを止める、蹴るの繰り返しです。チームの問題点があらわれやすい設定で繰り返しトレーニングすることによって、技術のレベルアップにつながる練習もあるということです。
試合に近い状況の要素ついて、ボール、敵、ゴールがあることを先ほど挙げましたが、ターゲットは必ずしもゴールでなくてもよく、例えば「センターフォワードに渡せたらOK」という設定でもいいでしょう。
トレーニングは課題を解決し、それを試合で再現できるためにするものです。連続的な動きの中で、「あっ、このシーンは試合でもある」と選手が感じられる設定にすることで、トレーニングでできたプレーと同じプレーが、試合でもできるようになります。若年層の指導者を含め、そういった条件設定のできる指導者が増えていくことで、日本サッカーのレベルはもっと上がっていくはずです。
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なかにし・てつお 1969年生まれ、名古屋市出身。同志社大から92年、Jリーグ名古屋に入団。97年に当時JFLの川崎へ移籍、主将として99年のJ1昇格の原動力に。2000年に引退後、スポーツジャーナリストとして活躍。07年から15年まで日本サッカー協会特任理事を務め、現在は日本サッカー協会参与。このコラムでは、サッカーを中心とする様々なスポーツを取り上げ、「日本の力」を探っていきます。