青少年に過剰な影響を与えることが懸念される「R-15指定作品」がペイチャンネルであっても、CATVのベーシックパッケージなどではフリーテレビ同様に視聴できてしまう。完全デジタル移行までの間、コンテンツ側も問題を抱えている。【西 正】
◇映倫規定と機能しないペアレンタルロック
多チャンネル放送が着々と普及しつつある中で、映画を流すチャンネルが直面している問題がある。それが映画倫理管理委員会の定める映倫規定との兼ね合いである。映画のレイティングシステムとは、映画鑑賞の際にその映画を見ることができる年齢制限の枠、及びその規定を言い、欧米をはじめ多くの国で規定されているものである。
日本の映倫規定は、1976年から中学生以下の入場を禁止する映画をR指定とすることで始まり、年齢制限の無い一般映画と分けられた。1998年5月からは、PG-12、R-15、R-18に区分されるようになっている。
従来は主に性的シーンの有無がレイティングに際して大きな要素とされたが、1990年代以降、猟奇的な犯罪などの多発から、暴力や殺人など反社会的なシーンの描写についてのウエイトが判断基準として重きを置かれるようになってきた。
「一般」とは「あらゆる年齢層が鑑賞できる」もので、1998年5月以前の一般映画を改定したものである。「PG-12」とは「12歳未満(小学生以下)の鑑賞には成人保護者の同伴が適当」とされるもので、性・暴力・残酷・麻薬などの描写や、ホラー映画など、小学生が真似をする可能性のある映画がこの区分の対象になる。「R-15」とは「15歳未満(中学生以下)の入場禁止」とされるもので、1998年5月以前のR指定を改定し、「P-12」のさらに刺激が強いものに加え、いじめ描写も審査の対象になっている。「R-18」は「18歳の入場を禁止」したもので、1998年5月以前の成人映画を改定し、「R-15」に加え、著しく反社会的な行動や行為、麻薬・覚醒剤の使用を賛美するような表現の項目が強調されている。
映画の鑑賞年齢にレイティングによる制限を設けることは、わが国に限ったことではないが、この規定は単純に映画館における映画鑑賞しか規制できていない点が問題になっている。
多チャンネル化によって映画を流すチャンネルは数多くあるが、本来はデジタル放送が前提でスタートした多チャンネルでもあったため、ペアレンタルロックという機能が使われ、親が暗証番号を入力しなければ視聴できないとされていた。
しかし、スカパーによる直接受信に限らず、全国のケーブルテレビのベーシックパッケージがアナログの形でペイチャンネルのセットを組んでいることから、リモコンでチャンネルを回していけば、地上波のようなフリーテレビと同様にペイテレビも視聴できるようになった。そこでは当然のことながら、ペアレンタルロックなどは機能する余地も無い。
「R-18」の作品については編成を見合わせているチャンネルもある。ただ、「R-15指定作品」については、放送時間帯を深夜0時以降に制限し、映像告知(番組紹介)、ガイド誌、EPG(電子番組ガイド)等に「R-15指定作品」であることを表示するなどして放映しているケースが大半である。
しかしながら、そうした自主規制は、ある意味ではチャンネル側のリスクヘッジと受け取れないこともなく、もう少し制度趣旨を重視した編成が行われるようにすべきなのではなかろうか。
「差別的表現」がそうであるとは認識されない時代に作られた映画が、今では地上波などでは流しにくくなっているのが実情である。フリーテレビと同様にケーブルテレビのベーシックチャンネルで視聴できてしまう現状では、放映を見合わせるか、そもそも映倫規定自体の在り方を問うかしない限り、放送事業者側のモラルが問われるのは当然であろう。
◇制作者の意図は伝わらないのが「年齢制限」であること
性的描写については、それほど大騒ぎをするのも大人気ないように思える。規制の対象となっている年齢の青少年が、性表現に強い関心を示すのは、むしろ健全な証拠であるとさえ言える。規制されるとしたら、歪んだ形の性的表現であろう。
麻薬、覚醒剤、暴力、残酷については、必要以上に注意を要する。特に低年齢になるほど分別がついていない世代であることから問題になると思われるため、「R-18」を放送しない以上の配慮が、「R-15」作品にはなされるべきであると思われる。
早く忘れてしまいたい事件ではあるが、佐世保市の同級生殺人では、加害者の女児が相手を目隠しして、後ろからカッターナイフで首を切り、相手が床に倒れた後も死んだことを確認している。死んだことというより、生き返らないことを確認した、と女児は言っているという。長崎市の幼児突き落とし事件、神戸市の少年Aによる年下の男の子の首を切断して放置した事件と、にわかに信じ難い事件が立て続けに起こっており、今も決して状況が改善しているとは言えない世相である。
映画と関連で問題になったのは「バトル・ロワイアル」という中学生同士が生き残りを賭けて殺しあうという内容の作品であった。佐世保の加害女児の場合には「バトル・ロワイアル」の自作版小説まで書いていて、その中で「殺す」という言葉を数多く使っていたという。
これに対して、識者や映画ファンは「この映画の狙いは殺しをあおることにあるのではない。大人から強要された非常な殺し合いの中で命の尊さに気づいていくのがテーマなのだ。映画を悪玉にあげるのは間違いだ」と主張しているという。
柳田邦男氏の「壊れる日本人」という著作では、「どう弁明しようと、心の発達が未熟でゆがんでいる子どもが見たら、文学的解釈などできるものではない。どんな影響を受けるかについては、加害者の女児の行動が厳然たる事実を突きつけている。たとえ映画や小説の影響が殺害行為の真の原因でないにしても、殺さないではいられないという意識と感情の“背中”を強く押し、実行行為の形を決定づけたのが、問題の映画や小説であったことは否定できない」と述べられている。
柳田氏の意見は正しいと思われるが、ここで映画や小説の罪の有無を議論するつもりはない。ただ、明らかに「R-15」指定の作品が、映画館以外のルートでならば簡単に視聴できてしまうシステムに問題があると思う。ビデオやDVDでも観られる。ペイチャンネルも事件直後には放映を自粛したケースもあるようだが、結果的には放映時間などを考慮しただけで流されてしまっている。
日本のペイテレビの視聴シェアは2割弱であり、米国の5割超に及ばない現状の中で、伝送路を問わずにペイテレビの視聴シェアを上げていこうという事業者側の思いは理解できる。しかし、映画、スポーツ、音楽、ニュース、アニメなどがペイテレビの代表であるとすれば、映画チャンネルとしては何のロックもかけられない媒体で「R-15」指定作品を流すことは控えるべきではなかろうか。
オール・デジタルの時代に向けて、地上波を衛星やIPで再送信する道が模索されている。しかし、オール・デジタルの一つのメリットがペアレンタルロックなどによる視聴制限がかけられることであるならば、オール・デジタルを目指している途上の段階で、こうした「R-15」指定作品をフリーテレビと同じ視聴環境で流してしまうことはいかがなものかと思う。
映倫規定自体が形式主義であるというのなら、放送時間で配慮するといった中途半端な自粛もやめにして、映倫規定と真っ向から戦えばいいのではないか。
今やネット上では、映倫規定どころではない画像、映像が垂れ流しになっている。それを考えたら、映画ぐらいは良い方だろうなどと考えているのだとしたら、ネットと放送の違いを論じる際に「放送の公共性」などを主張する資格は無いということだ。
たとえペイテレビであっても、放送である以上、リーチの広さはネットの比ではない。ペイテレビの普及拡大を目指すのであれば、映画作品の社会的な影響力についての配慮を伴って然るべきだ。
ビデオやDVDはどうするのか。そうした他人事を持ち出す前に、まずは自らの媒体についての真摯な検討がなされるべきである。安直な姿勢で加入者数を伸ばすことばかりを優先して考えているようでは、順調に普及していくことは望み得ない社会になりつつあることを失念していてはならないと思われる。