「美は痙攣(けいれん)的なものであるにちがいない。さもなくば存在しないであろう」。あまりにも有名になってしまったこの言葉で、アンドレ・ブルトンは「ナジャ」をしめくくっている。それは間違いなく、実験的なこの物語の冒頭の言葉、「私はいったい何者だろうか」に結びついている。その冒頭と最後の言葉とのあいだに、パリの街に突然現れた神秘的な女性、ナジャは浮遊している。
ふと、勝手なことを思う。ブルトンは、最初の言葉と最後の言葉を入れ替えることも可能だったのではないか、と。なぜなら、歴史はその後、美を問いへの答えとして、関連づけてしまったからだ。美を答えとして提示すると、美へ至る物語が生じてしまう。
ブルトンは、従来の物語を破壊して「ナジャ」を書いたが、「ナジャ」自体の物語性をも破壊したかったのではないだろうか。
人は物語をもって世界を理解しようとする。いずれの宗教もすべからく壮大な物語を持っている。人もまた日々物語を自作して納得する。物語を作れなくなったとき、人は破綻(はたん)する。破綻すると、たとえば精神分析などの方法で、過去からのつながりをたどって現在を読み解き、人は再び物語を作ろうとする。
音楽による世界の読み解きもやはり物語をもって行われてきた。楽劇はまさに新たな神話の創出である。ソナタ形式もまた、生の内面と外の形の見事な統一としての物語であった。
物語とは、言葉を換えれば虚飾・虚構でもあろう。それなしに世界を理解することは不可能なのであろうか。
あまりにも多くの虚飾から成る現代への抗議なのか、グルジア出身の現代作曲家、ギヤ・カンチェーリは、音をひとつひとつ、一切の虚飾の入り込まない形で追い求めようとしている。
最新のCD「イン・リステッソ・テンポ(同じ速さ)」でクレーメルのバイオリンとマイセンベルクのピアノによる「時~そしてふたたび」を聴いていると、カンチェーリがなんとかして、音にまとわりついている文化の文脈を取り去ろうとしていることが分かる。バイオリンとピアノのかすかな音で彼が破壊しようとし、葛藤(かっとう)しているのは、あまりにも重苦しい、過去からの時の流れだ。
その闘いの結果、カンチェーリに残るのは、叫びと沈黙の、傷ついた音の残滓(ざんし)になる。その音のたたずまいを名づけるとしたら、それこそ、痙攣的な美としか言いようがない。
そこから聞こえてくるのは、裸の存在の悲しみのようなものだけだ。だが、その悲しみが、なぜか、かすかな安息をも、もたらしてくれる。<梅津時比古(専門編集委員)>