日本の現代物理学の父とされる仁科芳雄博士とノーベル物理学賞を受けた湯川秀樹博士が1930年代後半から40年代にかけて交わした往復書簡約40通が見つかった。湯川博士は中間子理論で49年にノーベル賞を受けたが、当初は海外の研究者に理論を批判されていた。書簡からは、落ち込む湯川博士を仁科博士が励ます様子が読み取れ、研究者の内面を物語る貴重な資料になっている。12日から12月18日まで国立科学博物館(東京都台東区)で開催の「仁科芳雄と原子物理学のあけぼの」で公開される。
仁科記念財団が管理する旧理化学研究所の仁科研究室(東京都文京区)に残された膨大な手紙類を、中根良平・理研元副理事長と江沢洋・学習院大名誉教授が整理する中で、書簡を発見した。
湯川博士は35年、原子核内で働く力を媒介する新粒子「中間子」の存在を予言したが、著名な米物理学者のオッペンハイマー博士らから「根拠がない」と批判された。
湯川博士は、仁科博士あての37年7月の手紙で「理論全体が本質的に誤っているかの如(ごと)く言っているのは甚だ心外です」と、こうした状況に不満をこぼしている。
仁科博士は翌日すぐに返信し、「ambiguity(あいまいさ)のある理論を改良して、あいまいさの無いものにしたと云(い)う点を強調すべき」と励ました。実験で、中間子らしき粒子を見つけたことも知らせている。
湯川博士は自伝で「人見知りの激しい私も、仁科先生にだけは何でも言いやすかった」と記したが、中間子論をめぐるこうした具体的なやり取りは、紹介していない。
仁科博士(1890~1951年)は岡山県生まれ。理研の主任研究員として加速器研究などで業績を上げ、湯川博士や朝永振一郎博士を育てた。
湯川博士(1907~81年)は東京生まれで京都大理学部卒の理論物理学者。ノーベル賞受賞は日本人初で、反核・平和運動にも携わった。
中根さんは「2人は毎日のように書簡を交わしていた時期もある。湯川先生がいかに仁科先生を頼りにしていたかが分かる」と話している。
【中村牧生】