「(好きで)冷たくしたんじゃない。そうしなければ、生きていけなかった」。5月13、14両日、富山市で「ハンセン病市民学会」の第2回総会・交流集会が開かれた。その中の家族部会で、九州在住の60代の女性が、ハンセン病だった両親の存在を嫁ぎ先の家族に隠し、自責の念から結局離婚するなど、差別におびえ続けた半生を初めて全国のメディアの前で語るのを聞いた。ハンセン病の取材にかかわるようになって、間もなく1年。集会の取材で多くの人に会い、回復者や家族・遺族の心の中に残る傷跡の大きさに、改めて圧倒されている。
全国13カ所にある国立ハンセン病療養所には、計約1万6000人(昨年2月現在)が納骨されている。「骨になっても故郷に戻ることができない」と言われるゆえんで、回復者たちの中には、身を引いていった家族を今も良く思わない人たちが少なくない。医学的に不必要な強制堕胎や断種手術など隔離政策が犯したし烈な人権侵害の数々は枚挙にいとまがない。強制隔離をされた側に目が向くのは当然だが、心に深い傷を負ったままでいる家族たちもまた、被害者だった。
家族部会は昨年5月、ハンセン病国賠訴訟にかかわった家族や遺族らを支える「れんげ草の会」(熊本市)が中心となって発足。参加者はまだ40人程度だが、長年誰にも言えずに抱え込んできた思いを互いに語り始めている。集会で発言した女性も、「この場所だけではうそをつかずに、自分をさらけ出すことが出来る」と話す。
集会では、国立療養所などに残る胎児標本の扱いに関する問題も取り上げられた。ハンセン病を理由にした医学的に不必要な断種手術は戦後だけで1400件以上、人工中絶手術は3000件以上とされる。妻が堕胎を強いられた男性、中絶を強いられた女性らが沈痛な思いを語り、子をもうけることを許されず、人間としての尊厳を根本から侵害された悲しみを訴えた。
集会が閉会した翌日、私たちに何が出来るのか、自問しながら、瀬戸内に浮かぶ国立療養所・長島愛生園(岡山県)を訪れた。同園には、今も断種・堕胎政策を進めた医師の胸像が立つ。そこで暮らす回復者は、「生活や環境の面で変わったことはありますか」と問う私に、「何も変わっていないが、国の金で生かしてもらってますから……」と答えた。人の尊厳を傷つけられて、なお声をあげることに気後れしている回復者たちの姿があった。
今年はハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」の廃止から10年、隔離政策を違憲と断じたハンセン病国賠訴訟熊本地裁判決から5年の節目の年だ。5年前、私は学生でハンセン病問題に関する知識はほとんどなかった。入社2年目の昨年夏、強制隔離政策下の戦前からハンセン病の外来治療を続けた京都大医学部の取材をきっかけに、自分なりの問題意識を持つようになった。しかし、多くの回復者らに向き合って話を聞くたび、自らの無知を恥じ、その悲痛な叫びにも似た言葉に共感することすらおこがましい気持ちになることもある。
熊本訴訟から家族の支援を続ける国宗直子弁護士=熊本県弁護士会=は「ようやく家族が手をつなぎ始めた。その輪に市民が入ってきて話を聞いてもらうことが大切なのでは」と話す。長い時間を経て、胸の内を吐き出せる家族や回復者がいる。一方で、話したくない人、話したくても話せない人たちがいることも忘れてはならない。
集会には、2日間で全国から回復者や支援者、研究者ら延べ約1400人が参加し、熊本県で昨年開かれた設立総会を上回った。「教育部会」「青年・学生部会」も設立され、若い世代に問題をどう伝えるのか、教育現場からの報告もあった。若い世代が回復者に寄り添い談笑する光景も多く、支援と関心の広がりを実感できた。
集会の前からさまざまな取り組みを紙面化したが、メディア全般でみると、熊本訴訟の原告・支援者が多いためか、ハンセン病報道に熱心な九州以外は扱いが小さいように感じて気になった。大切なのは残る課題をいかに引き継ぎ社会に生かしていくかだろう。報道の役割は大きい。国の第三者機関「ハンセン病問題に関する検証会議」は昨年3月の最終報告書で、人権侵害を助長した要因として、長年無関心だったメディアの責任も指摘している。
療養所入所者の多くは戸籍を外され、“存在”を消された。今も心に大きな傷を引きずったままでいる人たちがいる。一人でも多くの声を伝え、記録し続けたいと思っている。
毎日新聞 2006年6月8日 0時24分