61回目の原爆の日を迎えた長崎は9日、国内外から集まった人々が犠牲者を悼み、平和実現に向けた努力を誓い合った。被爆体験の継承に力を尽くす人、静かに祈りをささげる人、国を相手に今も裁判を闘い続ける人。それぞれの立場で61年前の「あの日」に思いをはせた。
あと3年で消えるかもしれない命を、国との闘いで燃やそうとする被爆者がいる。長崎市金堀町の末次良昭さん(67)。2年前、前立腺がんと診断された。絶望から自殺も図ったが、「被爆者援護の道を広げたい」と原爆症認定訴訟の原告として生き抜く決意をした。今なお続く原爆の苦しみ。末次さんは、平和公園の鐘の音を長崎の街が見下ろせるアパートの部屋で聞いた。
小1の時に被爆した。母の使いで塩を買いに行った近所の酒屋の前で、空を見た瞬間に青い光が走った。爆心地から約2・9キロ。棚の下敷きになり、一緒にいた兄と店主に助け出された。
間もなく体の変調が始まった。歯ぐきからの出血、痔(じ)、胸の炎症……。学校の朝礼では貧血で何度も倒れた。貧しさで病院に行けず、母は弱った息子を見て泣いてばかりいた。
中学卒業後はトラックやバスの運転手に。48歳で入った通信制高校も卒業した。年を重ねるごとに、白内障や胃かいようなど持病が増え、一昨年の1月に前立腺がんを告知された。「5年生存率は50%」と書かれた文献を医師に見せた。「そうです」と短い言葉が返ってきた。その年に2度、睡眠薬で自殺を図った。
昨年9月、10年ぶり2度目の原爆症認定申請をした。主治医は意見書に「被爆による可能性」と書いたが、却下された。却下通知を破り捨て、厚生労働相あての遺書を残し死んでやろうとも思った。だが、長崎原爆被災者協議会を訪ね、裁判の道があることを知る。「あきらめてはいけない。挑戦することが、多くの被爆者を救うことにつながる」
集団訴訟に加わったのは今年6月。5月の大阪地裁、今月4日の広島地裁と被爆者勝訴が続き、救済の道は広がりつつあるが、末次さんにとっては「命の尽きるのと判決と、どちらが先か」の闘いだ。一人暮らし。再び入院すれば帰ってこられないと思い、家具はほとんど処分した。
体力の不安から、炎天下で行われる平和祈念式典にここ20年ほど参列したことはないが、毎年テレビ中継だけは見る。今年は月1回の日赤長崎原爆病院への通院から帰宅して見た。「式典に参加する子供たちの姿を見るたびに感動する。あの子たちのためにも、平和を残したい」。午前11時2分、窓の外の爆心地に向かい、静かに手を合わせた。【清水健二】
毎日新聞 2006年8月9日