尚子が因縁の東京で完全復活!東京国際女子マラソンは20日、東京・国立競技場を発着点とするコースで行われ、2年ぶりのフルマラソンとなった高橋尚子(33=ファイテン)は右足に3カ所の筋膜炎を抱えながら、35・7キロで一気にスパートし、2時間24分39秒の好タイムで優勝した。アテネ代表選考会だった03年大会で大失速して2位となったが、悪夢を払しょくして鮮やかに復活。来年のドーハ・アジア大会の代表選出が確実となり、悲願の08年北京五輪出場を視野にとらえた。スタート時の天候=晴、気温10・5度、湿度50%、南南東の風1・5メートル
誰もが目を疑った。右足に全治1カ月の重傷を負っているはずの高橋が、35・7キロすぎに満を持してスパートした。驚くライバルを尻目にぐんぐんと差を広げ、1キロで約100メートルもぶっちぎった。異次元のスピード、よみがえったダイナミックなフォーム。苦しみ抜いた2年間と決別するためにひたすら突っ走った。
03年に失速し、アテネ代表を逃した屈辱の上り坂では、心配になって後ろを振り返った。アレムに抜かれた因縁の39キロ地点。「大丈夫。いけるよ」と沿道のファンから声が飛ぶと、元気をもらったかのようにさらに差を広げた。国立競技場のトラックでサングラスを外し両手を広げて歓喜のゴール。00年シドニー五輪を制した、あの強い高橋がついに復活した。
月桂(げっけい)冠を授与されると目を潤ませた。「42・195キロ、途切れることのない声援を頂いた。暗闇にいた私が、夢を持つことで充実した1日1日を過ごすことができた。またここから時間が刻めそうです」。03年大会で敗れアテネ切符を逃したことで、高橋の時計は止まっていた。再び前に進むためには東京で勝つしかなかった。
レース10日前に負傷した。主治医からは出場回避を勧告された。「不安があった」と眠れぬ夜を過ごしたが、瀬古利彦氏(現エスビー食品監督)らを担当してきたマッサージ師を呼び寄せた。痛み止めの薬をのみ、ふくらはぎにはテーピング。懸命の治療が奇跡的な回復を呼んだ。
前半はストライドは狭く、腕の振りもぎごちなかった。給水では右足に水をかけ、消耗を防いだ。「我慢の連続だった」35キロを乗り切ると、難所の坂に差しかかる前に一気に勝負を決めた。
2年前は自分のために走ったが、今回はかけがえのない仲間のために走った。レース2日前、故障を公表した。本番への不安がピークに達したその夜、居ても立ってもいられず手紙を書いた。小出義雄代表と決別し、6月に立ち上げたチームQのメンバーにあてたものだった。どんな結果になっても、私はみんなに感謝している--。素直な気持ちをつづった。
レース当日の午前3時、ホテルの自室で目を覚ますと、ドアの下にメンバーからの激励の手紙が差し込まれていることに気づいた。西村孔トレーナー(32)のものには「一緒にやれたことを誇りに思います。明日は楽しんで走ってください」と書かれていた。「うれしくて涙が出た」。すべてを受け入れてくれた仲間への温かい気持ちが、高橋の背中を押した。
「みなさんのおかげで帰ってこられた。これが第一歩。3年後の大きな大会を視野に入れて頑張ります」。次の目標は北京五輪での金メダルしかない。東京で再び動きだした時計は、もう止まらない。
≪小出代表絶賛「ものが違う」≫高橋の優勝を見届けた小出義雄代表は笑顔を絶やさなかった。決別した教え子の快走とあって、内心は複雑だったようだが「いつも言っているけど、ものが違うよ。前半をもっと早く折り返したら(2時間)20分から21分は出た」と褒めちぎった。
自らの門下生である疋田美佳(アルゼ)は16位と振るわず厳しい表情だったが、高橋の元恩師として国立競技場の大画面に映し出されると右手を突き上げてガッツポーズ。「故障していても絶対大丈夫だと思った。スパートもちょうどよかったし(これから)まだまだ行くよ」とさらなる飛躍に太鼓判を押した。
自らの元を去ったことについては「自立しているからね。僕と10年間もやってきたから精神的にも強い」と話していた。