国家と戦争、それにかかわった父祖たちの運命、敗戦と戦争裁判、戦没者への思慕と崇敬、神道と日本人、他の宗教や憲法とのかかわり、続く世代の政治と外交、それらが複雑に絡み合った近現代史のしこりが今日の靖国問題だと思っている。だから「靖国神社に何回行こうが個人の自由」「突き詰めれば、『中国の言い分に従いなさい』というのが、参拝してはいけないという人たちでしょう」という小泉純一郎首相の発言(6月27日、オタワ)を受け入れることはできない。
小泉首相の靖国参拝継続が日中関係の構造改革をもたらしたという見方は一理あるが、そうだとすれば、これは慰霊なのか。指導者が隣国の争気をあおり立ててまで断行する慰霊とは何か。慰霊に名を借りた外交駆け引きではないのか。それも、一度踏み出した以上途中でやめるわけにいかず、開き直るしかなかったというのが実情ではなかったか。私の疑問はその一点にある。
今日、自衛隊イラク派遣で米大統領の信頼を勝ち取り、デフレ脱却にこぎつけた首相の威信は高く、その発言をあやしむ声は小さい。世代交代に伴って個々の戦没者の記憶は薄らぎ、不作法な議論をはばかる慎みは失われ、首相を支持して「中国にナメられるな」「それでも日本人か」と叫ぶ者が増えた。
これは国防意識の成熟であろうか。北朝鮮のミサイル攻撃に備え、中国の軍拡に対抗する現実的な防衛政策を追求することと、靖国問題を注意深く扱うこととは区別されるべきではないか。2カ月後に迫った自民党総裁選はそこを整理する好機だと考える。(編集局)
毎日新聞 2006年7月17日