せん光が走った後、広島の空は刻々と色を変えた。黄、だいだい、赤、紫……。被爆者の語る「空」は、晴れた日の夕方に現れることがあるという。その瞬間を収めようと、原爆ドームでシャッターを切り続けて10年になる。
「色に限れば1枚だけ撮れたが、『重み』は表現できなかった」。多い年は300日以上通い、撮影枚数は通算70万枚。しかし、原爆投下直後に被爆者が感じたであろう不快感や寂しさが渦巻くドームを撮り切れない。
大学で写真家を志し、海外の民族衣装など日本文化のルーツを追った。故郷の広島を被写体にするまで20年を要したが、勉強も自信も足りなかったという。両親は被爆者ではない。通った小学校は爆心地から1・5キロ。被爆した多くの保護者を気遣い、平和教育は行われなかった。被爆を肌で知らないという弱み。被爆地が背負う重みを作品で出せるのか、悩んだ。
転機は95年。写真家の一人としてテレビに出演。世界24カ国で放映され、取材先の海外で「広島の写真家ですね」と声をかけられた。後には引けない。97年にインドを訪ね、故マザー・テレサに「できる範囲で平和を伝える仕事を」と励まされ、被爆地と真正面から向き合うことを決めた。
生後間もない高熱で、背のしびれなど脳性小児まひの症状が残り、「50歳を過ぎたら2次障害が出やすい」と医師に言われた。「あと何年できるかわからないが1枚でいい。被爆者の思いを伝えるドームを撮りたい」(平川哲也)
【経歴】長谷川 潤(はせがわ・じゅん)さん 核問題を取材する世界の写真家集団「アトミック・フォトグラファーズ・ギルド」所属。父はプロ野球広島カープの元監督、長谷川良平さん。49歳。
毎日新聞 2006年7月28日