「釣竿(つりざお)を持つには邪念があってはいけない。山川草木の一部分であれ」。川釣りの極意として、井伏鱒二が短編集「川釣り」(岩波文庫)の中でこう記している。釣りの師匠に教えられた一説である。
和歌山の山深い清流。3年前、初めて体験したアユ釣りのことを思い出す。川床に入り、ポイントに竿を向けるが、アタリがさっぱり読めない。縄張り意識があるアユの習性を利用した友釣りは、磯釣り派の私にとって至難の業だった。川の中をイメージし、オトリをポイントに流すが、うまく操れないのだ。釣果は散々だった。
いま思うと頭の中は「邪念」だらけだったような気がする。夜のおかずや隣家へのおすそ分けのことばかり思い描いていた。結局、そのシーズンは2戦2敗(ボウズ)。アユ釣りにビギナーズラックはない。痛恨の初夏となった。
ようやく梅雨が明け、本格シーズンが到来したアユ釣り。各地で太公望が糸を垂らす。深緑に身を委ね、無心になってこそ香魚に出合える。鱒二の教えを胸に抱いて、久しぶりに川に出かけてみようか。「邪念」を捨てて。【亀山浩和】
毎日新聞 2006年8月2日