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発信箱:不安の変質 玉木研二

 「若者よ、なんとおまえはうぬぼれていることか、おまえはわたしが話すとき、聞こうともしない」「人は夜を徹しておまえを教え、昼間はおまえを鍛えるのに終始している。しかるにおまえはいかなる教えにも耳を傾けず、気ままな行動をとるばかりである」

 大人が青少年のありさまに舌打ちする。この言葉は、数千年の時を超えて残る古代エジプト人のぼやきである。「筑摩世界文学大系1 古代オリエント集」から一部を引いた。

 今に照らし、いつの世も同じだな、と苦笑交じりに大人が胸をなでおろす話であればいい。だがちょっと違うのだ。

 若者は大人世代に反抗し、社会に新しい価値観を植え付け、やがて同様に次世代の反抗を受ける--。有史以来その繰り返しだった。石器時代とて、若者は勝手に独自の狩猟法や石器作りをし、洞穴で大人たちは嘆きを交わしていただろう。

 今変わってきたのは、そうした世代間のカルチャー衝突のようなものが希薄になっていることだ。古来、若者を見る大人たちの目には不安の色が浮かんでいた。今日のそれは、かつての「えたいの知れない若い世代に自分たちは否定され乗り越えられてしまう」ような不安ではなく、いわば底知れぬ頼りなさのような不安なのである。

 昨今の教育改革論議では、しきりに今の若者や子供の「意欲、気力、学習目的の欠落」が語られる。学習指導要領が生ぬるい、教師がだめなんだと言い募る向きがある。だが、学校が背負いきれることか。時代や社会の所産であり、法や制度いじりだけでは到底特効薬たりえない。(論説室)

毎日新聞 2006年10月24日

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