73年前の夏、長崎で被爆した14歳の少女が執筆し、その4年後に出版された手記「雅子斃(たお)れず」は大きな反響を呼んだ。だが、「犠牲者に申し訳ない」と彼女は長く体験を人前で語らなかった。講演を引き受けるようになったのはこの数年。「原爆の恐ろしさを若者に伝えるのは、自分の務め」と考え始めた。
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「聞き捨て逃げしをゆるせ」
1945年8月9日。長崎高等女学校3年だった柳川(旧姓石田)雅子さん(87)=東京都文京区=は、動員先の三菱長崎兵器製作所の工場で被爆した。爆心地に近く、ガラスや鉄骨、板が降りかかった。首のあたりからは出血。炎が迫る中、工場を逃げ出した。
建物の下敷きになった人たちが「助けて」と声をあげていた。「火の手が広がって逃げるのに必死。助けることはできなかった」。罪の意識は消えず、柳川さんは後に短歌を作った。
《「助けてぇー」炎の中のそちこちにあがるを聞き捨て逃げしをゆるせ》
工場を出ると、男とも女とも区別のつかない裸の人たちが、見渡す限り倒れていたという。
奇跡的に助かったが、吐き気や…