高層のオフィスビルが立ち並ぶ東京・大手町に、平安時代の武将・平将門の首をまつったとされる「将門の首塚」がある。8月末、久しぶりに大島信三さん(76)が訪れ、手を合わせた。「あのころ、毎月必ず出勤前に、ここで祈っていたんです」
大島さんは近くに本社がある産経新聞社が発行する保守系の論壇誌「正論」の元編集長だ。新聞の記者などを経て編集長に就任したのは1990(平成2)年。冷戦が終わって米ソ対立という大テーマが後退。苦戦を強いられたオピニオン誌をどう活性化させるか大島さんは真剣に考えていた。毎月1日の発売日の朝に必ず首塚に足を運んだのも部数増を祈るためだ。
まず目をつけたのが、雑誌の最後にあった1ページの読者投稿欄だ。届いた投書を読んでいると「読者の書くものが面白いことに気づいた。その知恵をもっと拝借しようと思った」。
「読者の指定席」と名づけて投稿欄を6ページに増やしたのを皮切りに、93年には投稿に編集者が一言感想を添える欄「編集者へ 編集者から」を新設。2000年には読者の疑問に編集者や他の読者が答える「ハイ、せいろん調査室です」も追加した。「自国の歴史と先祖に誇りを持って生きるのはすばらしいことですね」「国旗を購入したいがどこにも売っていない。日の丸は簡単に手に入りません」……。次々と舞い込む封書やはがきを紙袋いっぱいに詰め込み、自宅に持ち帰って目を通した。
「読者には、自分の率直な意見を表明することで時代を変えようという参加意識があった」と大島さんは振り返る。「隣国から謝罪を求められ、靖国に参拝すれば批判され……。そんな昭和の風潮が薄らぎ、世の中が我々の考えに近づいているという実感もあった」
当時の正論を見ると「反日マスコミがあおっている」「職業差別の最も強い典型的な朝鮮人」などの表現が載っている。大島さんは「基本的には編集作業できちんと選別し、過激な発言は載せなかったつもり。問題も起きなかった」。
異論にも耳を傾けようと「朝日新聞的な意見」を載せたこともあったが、読者は「それは、他で読めばいい」と反発した。
読者投稿で雑誌は活気づいた。16年の在任中、発行部数は9万部から一時15万部まで増えた。投稿欄は多いときで50ページを超えた。
敵をたたく時代の到来
仲間内で集まるだけでなく、敵と味方が一堂に会し、バトルを通じて人々に参加を促したのが1987(昭和62)年に放送が始まり、平成に人気が定着した討論番組「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日系)だ。
怒声や冷笑が入り乱れる討論番組は、その後のネット時代の空気を作る上で大きな役割を果たした、と研究者は話します。そして、敵をたたく時代の到来を感じさせた番組が始まります。
「(憲法)9条2項の文章読ん…