江戸時代に新田郡下田嶋村(現・群馬県太田市下田島町)に屋敷を構えた新田岩松氏の当主が4代にわたり描いた「新田猫絵」が、市立新田荘歴史資料館で展示されている。120石の殿様の猫絵は、いわゆる美術品ではないが、当時から人気が高く、静かなブームは今も続いている。24日まで。
資料館によると、展示している20点の猫絵は、18世紀末の江戸時代後期から明治にかけての温純(あつずみ、義寄)、徳純(よしずみ)、道純(みちずみ)、俊純(としずみ)の当主4代が、養蚕農家の求めに応じ、蚕室に貼るネズミよけとして描いた。
新田岩松氏は、江戸住まいを免れる一方で大名に準じ参勤交代がある「交代寄合(よりあい)」格の旗本。「120石と極小の旗本にとって参勤交代は大変に金のかかる務め。経済的な困窮もあって猫絵を量産したのだろう」と市教育委員会の須永光一・歴史施設課長は見る。
「猫絵の殿様―領主のフォークロア」の著書がある群馬大学名誉教授の落合延孝さんによると、最初に猫絵の依頼を受けたのは1791(寛政3)年、温純だった。以来、新田猫絵の名は東日本から近畿まで知れ渡ることになる。横浜港の開港(幕末の1859年)後、猫絵は欧州にも輸出され、明治に爵位を得た俊純は「バロンキャット(猫の男爵)」と呼ばれた。
人気を背景に偽物も多数出回っ…