徳山ダム(岐阜県揖斐川町)で水没した旧徳山村を1987年に吸収合併した藤橋村。日本一の総貯水容量を誇るダムを利用し、観光立村をめざしたが……。
ダム湖渡り通う故郷、山を売らなかった旧徳山村民の思い
徳山ダムの下流5キロ付近の山あいに、プラネタリウムを備えた藤橋城や西洋風のつり橋、古民家が点在する。
水没した旧徳山村を吸収した藤橋村が20~30年前に造った観光施設群だ。ダムに伴う優遇措置や過疎債などで、史実にない城やつり橋にそれぞれ数億円をかけた。観光投資は全体で村の歳出(1990年代初頭で約22億円)に匹敵した。
だが、80年代に年間6万人だった藤橋城の入場者は、いま1万人。つり橋の先のオートキャンプ場は閉鎖され、雑草が生い茂る。往時のにぎわいを知る職員は「ダムの完成が2008年と遅れ、連動した話題を作れなかった」と悔やむ。ダム完成が見えた00年代には小泉改革で地方交付税や補助金が減らされ、追加投資も難しかった。
これに人口減少が追い打ちをかけた。藤橋村の人口はピークの1960年の約2200人から05年に約400人に減り、周辺5町村と合併して揖斐川町になった。最後の村議会議長だった高橋卓さん(87)によると、観光振興は雇用確保が狙いだったのに、施設の従業員すら地元で確保できなくなっていた。「地域が滅亡しかねず、合併しかなかった」と苦渋をにじませる。いまの藤橋地区の人口は約200人で、小中学校閉校に続き、15年に幼児園も休止。65歳以上の割合(高齢化率)は50%近くに達している。
藤橋村の人口が最も多かった60年は、村内で国の横山ダム工事が始まったころ。反対運動もあったが、ダム景気で商店や飲食店が軒を連ね、「横山銀座」と呼ばれた。徳山ダム関連の揚水発電所のために集落が移転したのに、最後に建設中止となったこともあり、巨大事業に振り回された村だった。
合併先の町、観光投資は慎重
徳山ダムの湖は、諏訪湖に匹敵する13平方キロメートルの広さがある。近くの道の駅「星のふる里ふじはし」には民俗資料収蔵庫があり、国の重要有形民俗文化財の旧徳山村の民具約6千点を収めている。
名阪近鉄旅行(名古屋市)の担当者は「観光地としての潜在能力がある」と認める。同社などの徳山ダムツアーは、ダム湖を周遊したり、ダム堤体を上ったりできて底堅い人気がある。
ダム湖北の冠山峠では、国道417号工事が続く。トンネルなどが完成すれば、北陸との周遊観光も可能になる。揖斐川町の富田和弘町長は「やっとスタートライン。今後が正念場だ」と話す。
だが町は新たな投資に慎重だ。ダム湖の周遊に使われているのは、水資源機構の連絡船。船室が狭く、定員90人の多くは吹きさらしになる。試行した水陸両用バスは好評だったが、購入に1億円、さらに維持費もかかるとして、導入予定はない。町議会ではダム湖で魚の養殖や放流事業をする案も出たが、環境保全や安全対策上難しいという。
揖斐川町全体の人口も、05年の合併時から20%以上減っている。徳山ダム関連の固定資産税13億円は町の一般会計の1割を占める貴重な財源だが、年々減っていく。町人口の1%しかない藤橋地区に割ける力は限られている。(古沢孝樹、編集委員・伊藤智章)