1945年12月9日、兵庫県の明石海峡で連絡船が沈没し、304人が死亡・行方不明になる事故があった。戦後間もない混乱期で大きくは報じられず、今では地元でも知る人が少なくなった。生存者の一人、元中学教諭の大星貴資(たかし)さんは来年90歳。慰霊碑に通い、事故を語り続けている。
沈没した連絡船「せきれい丸」が最後に出港した淡路島の岩屋港(同県淡路市)。海峡を望む高台に、大星さんは1人で暮らす。
事故から73年。世界最長のつり橋、明石海峡大橋が20年前にでき、現場の眺めは一変した。だが、「今も海に風が吹くと当時の光景がよみがえる。船に乗ろうとして風の音を聞き、怖くなって下りたこともある」と打ち明ける。
事故当時は16歳で神戸市の師範学校生だった。淡路島の実家から神戸市の寮へ米やイモを持ち帰るため、船に乗り込んだ。闇市へ買い出しに行く人、島で手に入れた魚を運ぶ人……。甲板まで人と荷であふれ、身動きができなかった。
「淡路町風土記」(71年発行)によると、当時は「約十米(メートル)の西風」で荒天。しかし「黒山の様(よう)に船を待っている客が居るので欠航するわけにゆかず」、約100人の定員の3倍を超す349人を乗せて出港した。食糧難でみんな必死だった。
約10分後、潮流の激しい海域で船はバランスを失って転覆し、大星さんらは冬の海に投げ出された。「助けを求めて泣き叫ぶ人、家族の名を呼ぶ人が波間にあふれた。やがて高波にもまれて、みんな散り散りになった」。漂流し、母親の顔が脳裏に浮かんだ。手足の感覚も意識も薄れかけたころ、漁船に救われた。
島の中学校の国語教師になり、退職後、慰霊碑の建立に奔走した。87年、遺族ら多くの人の協力で、現場を見渡す淡路市岩屋の「鳥ノ山(とりのやま)展望台」に「合掌之塔」と刻んだ碑ができた。
それから30年。周りにも事故…