9月、北九州市立中央図書館(同市小倉北区)から松本清張全集の大半がこつぜんと消えた。福岡県宗像市の市川喜男さん(87)が全集を寄贈し、今月から再び貸し出しは始まったが、今も詳しい経緯はわからない。
図書館の職員が異変に気づいたのは、9月9日の開館前。巡回すると、カウンター近くの本棚の全集がごっそり抜けていた。66冊のうち3冊は貸し出し中で、57冊がなくなっていた。
この日は日曜日で、午前9時半の開館前には外に数十人の列ができた。開館後の仕事が落ち着いたころさらに5冊が消え、最終巻の1冊だけ残っていた。
防犯カメラは8カ所にあるが、この本棚は死角だった。全集は1冊600~800グラム。担当者は「盗んだとしても何回かにわけたのか、複数犯か」と首をひねる。持ち出しを感知する機械はない。館内では年間約600冊が所在不明になっているが、これほどまとまった紛失はないという。同館は警察に被害届を提出。警備員の巡回を増やした。
毎日新聞元記者の市川さんは、記者生活30年の半分を事件担当などで小倉で過ごした。「現場を見たい」。消えた全集の記事を見た1週間後、図書館へ。足を運んで驚いた。全集は職員がいるカウンターからほど近い本棚にあった。誰かが盗んだとしても、疑問だらけだ。「他の入館者もいるなかで、あの重さを1人で運べるか。古本屋に売れば足がつく。犯人像がわからん」
清張作品で印象に残っているのは、小説「点と線」だ。1960年ごろ、作品に登場する香椎駅(福岡市)周辺に住んでいて、「キャンバスに絵を描いたような文章だ」。トリックを重ねてもボロを出さない構成などに引き込まれた。
全集は、71年の発売当初から、仕事の合間に読んだ。考古学の知識も豊富で感服した。「膨大な資料を咀嚼(そしゃく)しながら、あれだけ書くのは超人的」と話す。
約10年前、市川さんは松本清張記念館(同市小倉北区)のそばで心筋梗塞(こうそく)を起こし、病院に運ばれた。5年前に妻を亡くし、今年夏から自宅の整理を始めていた。「何かの因縁かな。郷土の先輩の作品がこれまで以上に愛読されることを願う」と話した。
図書館によると、寄贈の申し出は他にも6件あったという。担当者は「再び本来の姿に戻せてうれしい」と話している。(新屋絵理)