「平成」の結びが近づいてきた。うたかたの夢は弾(はじ)け、世界が大きくうねった30年。宮城でも、喜びや驚き、そして、忘れられない悲しみがあった。節目を迎えるそんな時代と歩んだ一人が、福原愛さん(30)。卓球選手としての「終わり」は、新たな始まりにつながっている。
卓球を始めたのは、3歳9カ月。平成4(1992)年8月だった。プレー中の涙顔も愛らしく、多くの人から「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれて愛された。以来、現役を終えるまでの選手生活は、平成という時代とシンクロするかのようだ。
卓球を始めた日のことは全然覚えてないんですけど、みんなと遊びたくて、どうやったら私のこと構ってもらえるかなって毎日考えていたのは覚えています。当時の涙は、その日の目標を達成できない自分がすごく嫌で、出た涙。達成できないと、その日の練習が終わらないというのもありましたけど。私は泣き虫なんかじゃないもんって思っていたんですけど、最後のリオ五輪も泣いてしまった。「やっぱり泣き虫愛ちゃんだったよ」って、今は思います。
平成6(94)年、全日本選手権8歳以下の部で史上最年少優勝を果たして頭角を現す。実に5歳10カ月。10歳だった平成11(99)年にはプロとなり、故郷・仙台を離れた。
記者会見で「今日をもってプロになります」と話したんですが、小さいながらにこれからはお金を頂く、ということもありましたし、自分だけの卓球ではないんだなという気持ちが今まで以上にしたのを覚えています。仙台を離れて大阪、中高は青森、その後東京と転々としていました。やっぱり仙台に帰るとふるさとに帰ってきたという気持ちになります。ホッとします。自分をリセットしてくれる場所ですね。
高校1年生だった平成16(04)年に、初めてとなるアテネ五輪出場。「あっと言う間に終わってしまったという気持ちが一番強い五輪」と振り返る。高みを目指して翌年には中国スーパーリーグに挑んだ。そして平成23(11)年3月11日。その中国で、東日本大震災の一報を知る。
世界選手権に向けた合宿の最中…