1945年3月10日の東京大空襲を垣間見た汐見弥寿子(やすこ)さん(100)は、帰郷した堺市で同年7月の空襲に遭った。母を失った。
焦土と化した日本「空襲1945」 あの日の惨禍、写真は語る
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堺市の国民学校の教師だった汐見さんは44年2月に同郷の男性と結婚。夫の仕事で東京へ転じた。
ほどなくして東京は空襲を受けるようになったが、自宅のある杉並区は比較的おだやかだった。死者10万人超となった大空襲時も荷物を抱えた避難民と遠くに黒煙を見たぐらい。杉並も狙われるようになると、防空壕(ごう)に荷物を放り込んだり頭上に落ちてきた焼夷(しょうい)弾に肝を冷やしたりしたが、日々の食べ物や燃料の不足のほうが心配だった。
さらに気がかりだったのは、堺市にいる母・小種(おたね)さんのことだった。汐見さんは夫と話しあい、いったん単身で帰郷することにした。当時妊娠4カ月だった。
2週間後の45年7月10日未明に空襲警報が鳴った。
産婆だった母ら医療関係者は医…