あの日を語っていいのだろうか――。宮城県東松島市で東日本大震災に遭った茨城大3年の佐々木侑太さん(21)は、被災後の数年間、モヤモヤした思いをずっと抱えていた。自宅は津波の被害を免れ、両親と2人の兄は無事だった。「被害が少なかった自分は、震災を語る資格がないのでは」。その考えは、一昨年に始めた被災地ボランティアの活動で変わった。
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2月上旬、宮城県石巻市の大川小学校に通っていた次女を亡くした元中学校教諭の佐藤敏郎さん(55)が、茨城大で講演した。企画したのは同大の学生ボランティアサークル「フルール」。メンバーの佐々木さんが、震災の教訓を語ってもらおうと依頼した。
あの日、中学1年だった佐々木さんは、忘れ物を取りに戻った学校の教室で地震にあった。母の迎えで自宅に戻り、避難した。石巻市で働いていた父と六つ離れた双子の兄2人は、数日後に無事だと分かった。防波堤近くに住んでいた祖母は津波にのまれ、2カ月後に遺体で見つかった。
自宅は海から離れた場所にあったため、傾いたり壁にひびが入ったりしたが生活はできた。一方、同じ市内でも海岸近くの家は流され、多くの死者が出るなど、被災の程度に差があった。約2カ月後に授業が再開してからは、できるだけ家族の話をしないようにした。親やきょうだいを亡くした生徒もいて「何げない一言が誰かを傷つけるかもしれない」と思ったからだ。高校でも、震災は触れづらい話題だった。
大学でサークル活動を始めたのは2017年4月。最初は震災のことを聞かれても、話すのを避けていた。でも、大川小の校舎の清掃など、被災地でボランティア活動をするなかで、気持ちに変化が起きた。周りであれだけの人が亡くなった震災。どうしても「教訓を見いだしたい」という思いがわく自分。明るく活動する被災経験がない他のメンバーと、自分の気持ちの温度差を感じた。「震災の教訓を学ばないと、亡くなった人たちに失礼じゃないのか」。少しずつ、自分から震災の話をするようになった。
サークルの仲間たちに、「被災地で感じたことを社会にどう還元するかが大切だと思う」と話し、その発言を機に、サークルはボランティア以外の活動に取り組むようになった。被災者を招いて講演会を開いたり、震災と学力低下の関連を調べて発表する場を設けたり。仲間に話したことで「自分ってこんな風に思っていたんだ、と確認できた」と振り返る。
11日はサークルの仲間たちと一緒に、地元・宮城で迎える予定だ。その後は就職活動が本格化するため、サークルはしばらく休むが、震災経験者としての自分にできることは、続けるつもりだ。「就職しても休暇をとって、東北でボランティアを続けたい」(益田暢子)