1枚の死亡診断書が、25日にリニューアルオープンした広島平和記念資料館に常設展示されている。33歳で被爆し、幼い5人の娘を残して亡くなった新聞記者のものだ。 妹の制服だけが残った 泣き崩れた兄、原子核物理学者に 被爆者は今、核兵器と人類の関係は…核といのちを考える 合同新聞(現・山陽新聞)の記者、藤間(とうま)侃治(かんじ)さんは1945年5月末に広島へ単身赴任。宮島の歴史や呉の造船所などの取材をしていた。 8月6日朝、爆心地から約1キロの下宿で被爆。大やけどを負ったが、約150キロ離れた我が家をめざした。7キロほど歩いたところで倒れ、救護所に運ばれた。親戚が19日朝に家族の住む岡山県津山市に連れ帰った。 顔と腰以外は皮がむけ、肉があらわに。背中には大量のウジが湧いていた。病床で妻幸子さんに言った。「強う生きてくれ。子どもは大きゅうして良縁につけてやってくれ」。8月24日午後9時ごろ、妻や2カ月から4歳までの5人の娘たちに見守られ亡くなった。 「父の愛情は生きるよすがにな… |
ある新聞記者の死亡診断書 娘5人「手紙に父の愛情」
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