「美術は魂に語りかける」評・横尾忠則(美術家)
印刷インキが紙に定着するまでに何度も重ね刷りの工程を繰り返した結果、そこに予想を超えた不確定な抽象形態が現出する。それを「ヤレ」と呼ぶ。かつて若い頃印刷所で体験したその経験は私に初めて芸術魂を移植した瞬間として、今でも私の内部で創造の核となっている。
本書にはサイ・トゥオンブリーの、重ねたりひっかいたりした行為の結果、画面全体が黒く、まるでヤレのような効果を上げた作品が掲載されているが、非美術のヤレが彼の手によって美術に昇華された、そんな一連の作品をMoMAの個展で観(み)た時の驚きこそ「美術は魂に語りかける」遭遇事件だったのである。
アートを前に胸が締め付けられたり、涙の流れる感覚を体験することがあるが、こうした感情が生理に及ぶ時、われわれはそこに知性の作用ではない何か別の計り知れない力のようなものが語りかけてくることに気づく。それを魂の作用と言えばいいのか……。
本書の原題は“Art as Therapy”(セラピーとしてのアート)で、表題にある「魂」について語るというより、「アートは人を癒やす道具」として、一般的な美術論を超えて人間の精神と肉体を開示させる力の法則のようなものを、哲学の眼(め)で日常生活の中にわれわれの魂を位置づけてくれる。セラピーが魂とイコールかどうかは私にはわからないが、アートがただ鑑賞の道具としてではなく、「実用」としてのアートに目覚めるならばアートの使命はとてつもなく、社会と人間を巻き込んだ人間生存必需品として考えれば、アートの存在は宇宙的な視野にまでその領域は拡張されていくような妄想が美術家としての私の中でわけもなくザワつくのである。
本書は多岐にわたって従来の美術書とはかなり内容を異にしながら、鑑賞者のアート観を根底から震動させるに違いない。
画像はアート作品「画評」
掲載している横尾忠則さんの「書評」は、活字だけを使ったアート作品です。横尾さんがこの本のために書いた評の本文を重ね刷りしています。「画評」ともいえるでしょう。
この造形作品、横尾さんの夢の中に出てきたというのです。ある夜、新聞を開いたら、まだ書いていない書評が掲載されていて、しかも、「ダダの詩のように、文字が重層的に印刷されて読めないものだった」と。
読めそうですんなりは読めないこの書評ですが、『美術は魂に語りかける』について横尾さんは、一般的な美術論を超えて「鑑賞者のアート観を根底から震動させるに違いない」と読み解き、アートの使命について考えています。活字の塊から、なにか別のものが見えてきませんか?
ダダイストは理性や常識を超え、仏のシュルレアリスト、ブルトンは夢も創造の源泉にしました。非現実の夢を現実の紙面に写し取った横尾さんの作品を見ていると、ブルトンが賛美した「不可思議」の世界に引き込まれるようです。(読書編集長・吉村千彰)