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夕立のようだった焼夷弾の音 焦土の街、写真の場所は今

作者:佚名  来源:本站原创   更新:2019-5-10 17:17:22  点击:  切换到繁體中文

 



【左】写真家・中山岩太が撮影した神戸空襲後の街。中央付近の鳥居は三宮神社【右】現在の大丸神戸店前=神戸市中央区



神戸が焼け野原となった大空襲から今年で74年。芦屋市の写真家・中山岩太(1895~1949)が撮った空襲直後の写真が今に残っている。これはどこで撮られた写真で、フレームの外にはどんな光景があったのだろうか。それを知りたくて、街を歩いた。


叔母とシスターは同じ壕で…神戸空襲、重なる2人の足跡


焦土と化した日本「空襲1945」 あの日の惨禍、写真は語る



神戸空襲とは


米軍による神戸市域への無差別爆撃は1945年2月に始まり、3月17日未明の大空襲で市の西半分が壊滅。5月11日の大空襲で灘区や東灘区が大きな被害を受け、さらに6月5日の大空襲で市の東半分も焦土化。市史によると7491人が亡くなった。



「ああ、これは三宮神社の前、大丸の角ですね」


拍子抜けするほどあっさり答えが出た。差し出した1枚を見て説明してくれたのは、西阪順三さん(86)=神戸市兵庫区=。「当時を知る人を探している」と市民団体「神戸空襲を記録する会」に相談し、紹介してもらった空襲体験者だ。




中山岩太がとらえた空襲直後の写真と同じ位置に立つ西阪順三さん=神戸市中央区



戦時中は、現在の阪急神戸三宮駅の北側に、両親と姉2人の5人で暮らしていた。大丸神戸店があり、休日には大勢でにぎわう三宮神社周辺は、子ども時代の西阪さんの遊び場だった。鳥居の奥あたりには当時映画館があり、こっそり忍び込んだことも。「大人に見つかってトイレの窓から逃げたのもいい思い出です」


朝食後、鳴り響いた空襲警報


そんな平和な日常を戦争が引き裂いた。1945年6月5日朝。西阪さんは、当時中学1年生。朝食を済ませて2階で勉強していると、空襲警報が鳴った。3月の大空襲では無事だったので、「きっと今回も……」と思っていたら、近くのビルに焼夷弾(しょういだん)が落ちた。




B29から神戸市の港湾地帯へ投下される焼夷(しょうい)弾の雨=1945年6月5日、米軍撮影



あわてて1階に駆け下りると、家にも焼夷弾が降ってきた。父親は自転車で職場に、母親は「はよ逃げなさい」の言葉を残して姉2人とともに家を出た。西阪さんは布団で家の中の火を消しとめ、後を追った。


焼夷弾が降る「ザー」という音が夕立のようだった。あたりは煙と炎に覆われ、逃げ道がわからない。


「そっちに行っちゃだめだ!」。戸惑う西阪さんに、警防団の服を着たおじさんが声をかけてきた。おじさんは西阪さんの右手をとって一緒に逃げ出した。しかしその直後、おじさんの手からふっと力が抜けた。頭に焼夷弾が直撃していた。「おじさん!」と何度も叫んだが、倒れたおじさんは動かなかった。


おじさんの血を全身に浴びた姿で逃げ惑ううちに警察に保護され、父親とは落ち合えた。しかし、先に逃げたはずの母親と姉2人の行方はわからなかった。


母や姉たちの行方を探して




空襲後、焦土と化した大丸神戸店前。写真中央付近の鳥居は三宮神社=現在の神戸市中央区、中山岩太撮影



約1カ月後、姉の1人がようやく見つかった。生田神社の東側あたり。手に持っていた財布の中のはんこと、おなかの下で抱きしめていた弁当箱から警察が「身内の人では」と教えてくれた。14歳だった。姉の頭を父親が、西阪さんが足を持って自宅まで連れ帰った。父親と二人で木片をかき集め、荼毘(だび)に付した。母親ともう1人の姉はその後も見つからなかった。




現在の大丸神戸店前=神戸市中央区



西阪さんは、現在の兵庫県たつの市の叔母宅に身を寄せた。8月初めの夜、叔母は夢を見た。叔母がふと玄関に出ると、西阪さんの母親が立っていて、「順三をよろしく」と言ったという。それを聞き、西阪さんはこらえきれず号泣した。


敗戦を知らされたのはその数日後だった。それまで日常的に「日本には神風が吹く」「絶対負けない」と繰り返し教わっていた。あれは一体何だったのか。


「信じられないでしょう? けれど、これが戦争の現実なんです」。西阪さんは静かに語った。「『戦争反対』なんて口ではなんぼでも言える。でも、やっぱり実際の戦争に苦しめられた人間が言わないと……」




中山岩太がとらえた空襲直後の写真と同じ位置に立つ西阪順三さん=神戸市中央区



平成は戦争のない時代として過ぎた。昭和の戦争を経験した人が多く健在だったことも大きいだろう。


では、これからは――。


西阪さんは「もちろん、平和が引き継がれることが願いですよ」とひときわ言葉に力を込めた。74年前は焦土だった大丸前。西阪さんの声と、楽しげに談笑しながら近くを通り過ぎる高校生たちの明るい声が、一瞬交差して耳に響いた。(大木理恵子)



〈神戸空襲〉 米軍による神戸市域への無差別爆撃は1945年2月に始まり、3月17日未明の大空襲で市の西半分が壊滅。5月11日の大空襲で灘区や東灘区が大きな被害を受け、さらに6月5日の大空襲で市の東半分も焦土化。市史によると7491人が亡くなった。


写真300枚、特集ページで




朝デジスペシャル「空襲1945」。URLはこちら→https://www.asahi.com/special/kushu1945/



神戸空襲を始め、朝日新聞社が保管する写真300枚を紹介する朝日新聞デジタルの特集ページ「空襲1945」(


http://t.asahi.com/v8cm



)が公開中です。


空襲・戦火の記憶、記事一覧はこちら



 

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