写真家・中山岩太(1895~1949)が撮影した神戸空襲の写真をもとに当時と現在の様子を比較する取材をしているさなか、協力を申し出てくれた人がいる。その人の話を聞くうちに、あの日、炎に追われて偶然同じ場所で亡くなった二人の女性をめぐる物語が浮かび上がってきた。
夕立のようだった焼夷弾の音 焦土の街、写真の場所は今
焦土と化した日本「空襲1945」 あの日の惨禍、写真は語る
神戸空襲とは
米軍による神戸市域への無差別爆撃は1945年2月に始まり、3月17日未明の大空襲で市の西半分が壊滅。5月11日の大空襲で灘区や東灘区が大きな被害を受け、さらに6月5日の大空襲で市の東半分も焦土化。市史によると7491人が亡くなった。
連絡をくれたのは神戸市の高校教師、岡村隆弘さん(59)。市内に住んでいた岡村さんの伯母・節子さんは1945年6月5日の大空襲で犠牲となった。当時23歳。「べっぴんさんで、優しい人だった」と親族から聞かされた。戦争体験はないが、定年が近づくにつれ、会ったことのない節子さんへの関心が高まった。
節子さんの弟である叔父から戦後聞いた話によると、節子さんとは空襲のさなかにはぐれたという。避難するとき、後ろをついてきてくれていると思っていた。だが、ふと振り返ると姿がなかった。遺体は防空壕(ごう)近くで見つかったが、同じ場所へ行くと遺体は既に運び去られた後だった。遺体を家に連れ帰ることすらできなかった――。
叔父が教えてくれたのはそんな話だった。つらい思い出をこまごま語らせるのはためらわれ、それ以上詳しくは聞けずにいた。
それでも、当時住んでいた家の現在地や、節子さんが最期を迎えた状況、その場所を知りたい――。そんな思いで、旧地名を頼りに街を歩いた。
99歳のシスターが語ったこと
神戸市文書館に足を運んだ時の…