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決壊した堤でにらみ合う農民 江戸期の水害、絵図で克明

「深きこと蒼海(そうかい)のごとし」。昨年7月の西日本豪雨に見舞われた岡山県南西部には、江戸時代末期に同じような豪雨で一帯が水没したときの様子を詳細に記録した絵図が伝わっている。どんな人が、どのような思いで絵図を残そうとしたのか。現地で探った。


西日本豪雨から1年


過去に学び減災へ、災害考古学


岡山平野を南北に流れる高梁川(たかはしがわ)は古くから、豪雨のたびに氾濫(はんらん)を繰り返してきた。ペリー率いる黒船4隻が浦賀に来航する直前の嘉永(かえい)3(1850)年6月3日(旧暦)。高梁川が氾濫し、流域の70カ村余りが水没した。その被害状況を記した詳細な絵図が、岡山県早島町に残されていた。


「高梁川嘉永洪水絵図」。早島町の戸川家記念館を訪れると、大きなガラスケースの中に収められていた。絵図は縦約100センチ、横約210センチ。現在の倉敷市街地から早島町、岡山市西部まで東西約15キロの範囲が描かれた。絵図の左端に高梁川の流れが上下に描かれ、その一部の土手が決壊し川の水があふれている。民家や田畑を埋め尽くすようにほぼ一面が青色で塗られ、広い範囲で水没した状況が一目で理解できる。青色の濃淡で水の深さが示され、水没した村々で「水八尺(約2・4メートル)」などの深さも記されている。


興味深いのは、そのディテールだ。人や牛馬、米俵などが詰め込まれた小舟が被災地を行き交っている。浸水を食い止めた堤の上で馬上の役人が指揮し、人々が土砂を運ぶなど堤をかさ上げする作業の姿もある。


すでに決壊した堤をはさみ、複…


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