1945年7月10日未明、仙台上空にB29機123機が襲来し、911トンもの焼夷(しょうい)弾を降らせて、市中心部を焼き尽くした。米軍が投下目標にしたのが、現在の青葉区・クリスロードと東三番丁の交差点。この「爆撃中心点」に、仙台空襲の記憶を伝えるモニュメントを置こうと、在野の研究者が声を上げている。
焦土と化した日本「空襲1945」 あの日の惨禍、写真は語る
日本中が戦場だった 300枚の写真、映像が語る空襲
市内に住む新妻博子さんは、各地の仲間と協力し、米国立公文書館の米軍資料を分析。空襲体験者の証言と突き合わせるなどの作業に取り組んできた。
仙台空襲2カ月前、米軍偵察機が仙台を上空から撮影し、「リト・モザイク」と呼ばれる精密な写真をつくった。描かれているのは爆撃中心点と、その点から半径1・2キロメートルの円、そして爆撃機の進入角。各機が爆撃の際、このリト・モザイクを携行したとされる。
米軍は爆撃の誤差も想定し、円内に半分が着弾すれば、市街地は壊滅すると考えた。まず先導機が中心点を狙って、M47焼夷爆弾を投下。発生した火災を目標に、後続機がM17集束焼夷弾を落とす。「最も効果的に経済・生産活動に打撃を与える作戦だった。爆撃中心点は、戦略爆撃の狙いを象徴する場所」と、新妻さんは指摘する。
仙台空襲では市民1千人以上が…