薬害C型肝炎九州訴訟で一部敗訴した国が控訴した。6月の大阪訴訟でも控訴しているので、予定通りの手続きなのだろうが、私は厚生労働省に「これ以上、裁判で争ってどんなメリットがあるのか」と問いたい。国民病とも言われる肝炎を減らすことが、行政にとって急務であるのは疑いがない。原告との和解なしに、抜本的な対策など不可能だと思うからだ。
B型も含めたウイルス性肝炎感染者は日本で約350万人と推定される。多くは慢性肝炎になり、20~30年程度で肝硬変や肝がんに進行する。肝がんの死者は年間3万人以上で、がんの中では胃、肺、大腸に次いで多い。肝がんの8割はC型肝炎が原因と言われる。
裁判での国の主張を借りれば、C型肝炎は「肝硬変になるまで通常は自覚症状がなく、インターフェロン療法が非常に有効」な病気だ。それならば早期発見・治療が何よりも必要だ。
ところが、国の対策は大きく遅れている。今年度から年齢制限のない無料ウイルス検査が制度化されたものの周知徹底せず、多くの自治体が未実施とみられる。そのためか、厚労省は実態すら公表していない。治療への公費助成も、北海道や長野県などが独自に取り組んでいるだけだ。
国は「肝炎対策は年々強化している」と反論するかもしれない。だが保険適用されても平均100万円かかるインターフェロン治療に、副作用で仕事ができなくなる恐れを抱えつつ踏み切れる患者がどれだけいるだろうか。ウイルス検査を受けようと思っても、住んでいる自治体が有料か無料かを知っている国民はどれほどいるのか。国以上に検査や治療を社会に呼び掛けているのは「人ごとではありません」と街頭で訴えてきた他ならぬ原告たちだ。
ウイルス性肝炎の大半が輸血や注射針の使い回しなどによる「医源病」だということも忘れてはいけない。厚労省の肝炎ウイルス疫学研究班長を務める吉澤浩司広島大教授(衛生学)は「感染させられた病気である以上、できる限り社会が手を差し伸べる必要がある。肝がんの増加を止めれば、将来的な医療費抑制にもなる」と指摘する。
それでも動きの鈍い厚労省に、私は裁判を口実にした「思考停止」を感じる。裁判で国は、原告が訴える被害に疑いの目を向け続けた。カルテがない原告には血液製剤投与の有無を疑い、慢性肝炎の〓怠(けんたい)感を訴える原告には別の病気の可能性を疑った。「家事だけで精いっぱいだった」という証言を「日常生活はできる」と言い換えた。
取材した10人以上の原告は例外なく、健康だけでなく大切なものをC型肝炎で奪われた。二男の出産時に感染した山口美智子さん(50)は、息子に「僕が生まれたからお母さんが病気になった」という負い目を与えたことを今も悔やむ。小林邦丘(くにたか)さん(34)は恋人との結婚をあきらめ、長崎県佐世保市の男性(23)は将来への不安から最大の理解者だった妻にも去られた。
こうした原告の「人生被害」を国がすべて償え、と言うつもりはない。だが、原告を敵対する存在とみなし、肝炎問題の深刻さから目をそむけていなかったか、自問してほしい。
今年あったトンネルじん肺や原爆症認定訴訟でも、国は2週間の期限を待たずに控訴した。九州肝炎訴訟の原告が、川崎二郎厚労相に面会を求めたが、担当者は要請書の受け取りすら拒否した。何の過失もないのに命や健康を奪われた人たちに会おうともせず機械的に上訴するのは、あまりに冷たい。厚労省は「敗訴が確定するまで責任を取らされることはない」という、その場しのぎの思考に陥っているように見える。
大阪訴訟判決後、96人だった原告は127人になった。原告は増え続けるだろうし、輸血感染の患者が新たに裁判を起こす可能性もある。厚労省は、すべての被害者側の主張をはねのけて全面勝訴する自信があるのだろうか。
実名公表した全国最年少原告の福田衣里子(えりこ)さん(25)は、毎日新聞に寄せた手記に「国や薬といった、私たちを守ってくれていると信じていたものから裏切られた」と書いている。海外を一人旅してパン職人という夢を見つけながら、20歳で感染を知ってからは何を信じていいか分からず、立ちすくんでいる。彼女と仲間の健康を取り戻す道筋が出来さえすれば、本来歩むべき未来へのレールに、きっと乗ることができる。
まだ間に合う。厚労省は患者と手を携えて、肝炎対策に本腰を入れてほしい。その第一歩は、展望のない争いをやめ、被害者と向き合うことだ。薬害を繰り返した過ちを認めて謝罪する勇気が今、何より必要だ。(西部報道部)
毎日新聞 2006年9月13日