子供のころの雑誌の付録などで「消えるインク」というおもちゃがあった。書いた文字が何かで消えるというものだったが、江戸時代の人はイカ墨を時がたつと「消える墨汁」だと思ったようだ。悪人が借金の証文をイカ墨で書いて踏み倒す話がある▲実際にイカ墨の文字は古い写真のようなセピア色になる。それもそのはず「セピア」はラテン語でコウイカのことで、そのイカ墨を使ったインクがギリシャ、ローマで使われた。後の時代にも画家レンブラントが愛用し、レンブラント・インクとも呼ばれた▲イカ墨のインクには、もう一人の偉大な愛好者がいた。東京の森アーツセンターギャラリーで開催中の「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(来月13日まで)で展示されている彼の直筆ノート「レスター手稿」もイカ墨のインクで書かれたものである。約500年間、消えないでよかった▲ダ・ヴィンチによる自然現象などへの観察と考察が記録されたこの膨大なノートは、左右を逆転させた鏡文字で書かれていることでも有名だ。彼が左利きだったためらしいが、それだけではなく人に読まれぬようにしたとも、印刷の原版にすることを意識したからだとも、諸説ある▲読書週間の始まるあす27日は、今年新たに制定された「文字・活字文化の日」になる。人の目からウロコを落とす考察や、心揺るがす感動を、時を超えて伝えるのが「文字」である。レスター手稿の記述もその真価が分かったのは、書かれて300年以上もたった19世紀になってからだ▲文字は読む努力をしなければ紙の上のシミに過ぎない。天才が下手すれば消えてしまうイカ墨の鏡文字でその考察を残したのも、遠く時空を隔てた読み手へのそういうナゾかけだと空想するのも楽しい。