明治の政治家・田中正造の抵抗運動で知られる足尾鉱毒事件の舞台となった谷中村(現栃木県藤岡町)が、廃村から100年を迎えた。旧銅山の周囲は草木が生えず、被害のつめ跡は今も残るが、村の跡地では「洪水対策」という名目で土地を掘削する公共事業が計画されている。国も加害企業も責任から逃れ、カネで幕引きを図ろうとする手法は谷中村から始まった。その構図が今日まで変わらないから、公害や薬害は後を絶たない。「公害の原点」となった場所に1年近く通い、そう痛感した。
「旧村民を利用して、公共事業を正当化した。谷中はいつまでも国のおもちゃのままなんだ」。6月30日、藤岡町で開かれた廃村100年の記念式典に、村を偲(しの)ぶ行事と思って出席した村民の子孫(79)は怒りで肩を震わせた。
式典であいさつに立った国土交通省の幹部は「遊水地をさらに掘り下げ、洪水時の貯水容量を増やしていく」と表明した。「それが立ち退いた村民に報いることです」とも述べた。鉱毒被害や国、企業の責任には一切触れなかった。
国交省は村の跡地に広がる「渡良瀬遊水地」をさらに500万~1000万立方メートル掘削する計画を進めている。明治以来、この遊水地が鉱毒をため込む器になっていることは関係者なら誰もが承知しているが、国が明確に認めたことはない。一貫して「洪水対策」と説明されてきた。しかし、元東京都環境科学研究所員の嶋津暉之さんは計画を「洪水対策としては全く無駄な事業。掘削は利根川の水面を4センチしか下げない。支流の堤防を強化する方がずっと有効だ」と指摘する。式典はそんな批判をかわすためにも見えた。子孫たちの怒りは当然だろう。
足尾銅山は1877年、古河鉱業(現古河機械金属)が本格操業を始め、明治中期には国内産銅量の4割を占めた。国の近代化には大きく貢献したが、渡良瀬川沿岸では農作物の立ち枯れなどが相次いだ。村は一方的に遊水地に指定され、廃村を強いられた谷中村民の多くは所有地の実勢価格の10~20%の補償金をもらっただけで周辺市町や北海道まで四散した。
今も現地は息をのむような光景が広がっている。旧銅山周辺では林野庁などが毎年約20億円を緑化に費やすが、多くの山々が赤茶色の岩肌をさらしたままだ。村があった100キロ下流の広大なヨシ原には墓地だけが寂しく残る。
近くの農業男性は「今でも樹木の根が地中深くに達すると、鉱毒土のせいで木肌が黄色に変わって枯れる」と憤った。別の農家からは「白菜を植えたら芯(しん)に黒い筋が入った」と打ち明けられたが、「記事では場所を書かないで」と頼まれた。風評被害を恐れるからだ。事件は決して過去の話ではない。
足尾鉱毒事件とその後の公害問題には共通点が多い。例えば古河鉱業は明治20年代、企業責任を問わないことを条件に、生活の糧を失って困窮する被害民に見舞金を支払い、「永久示談」とした。これは59年に化学メーカーのチッソが水俣病患者たちに迫った示談と同じ手法だ。
また、当時の古河鉱業には多数の官僚が天下りで再就職し、原因や責任の究明をあいまいにする一因となった。02年の薬害エイズ訴訟大阪高裁判決では、旧厚生省局長から天下った旧ミドリ十字元社長が「リスクの大きさを見極めることなく、営業上の利益に重きを置いた」と断罪された。官僚と企業が癒着し、被害を認識しながら効果的な手を打たず、被害が拡大する構図。これも足尾に原形があったといえる。
新潟水俣病の第2次訴訟弁護団長を務めた坂東克彦さん(72)は「責任を特定せず、金銭で和解・救済という手法を取る限り、公害の根本的解決にはならない」と言い切る。戦後の公害の歴史で被害者軽視が続いた根底には、足尾鉱毒事件の放置と無反省があったのではないか。
谷中村では廃村になった後も16戸が残留し、1917年まで闘った。谷中生まれの最後の世代で昨年12月に89歳で死去した竹沢一さんは、亡くなる直前、私の取材にこう答えた。
「銅山が必要だった事情は分かる。だが、99人が潤っても、公害では残る1人がどんな犠牲を強いられるか、思いを持ってもらいたい」。近くに移住した後も、農家としての生涯を汚染土に翻ろうされ続けた証人の言葉だ。
今からでも遅くはない。政府や加害企業は足尾鉱毒事件を再検証し、教訓を形にして残すべきだ。「谷中」はもう、繰り返してはならない。(宇都宮支局)
毎日新聞 2006年9月5日