沖縄県名護市で戦前に建築された木造の泡盛工場が、7年をかけて修復された。沖縄戦をくぐり抜け、今も醸造を続ける県内で唯一の施設。保存を求めてきた市民らは「名護にも泡盛文化の原点があった証拠が残った」と喜んでいる。
沖縄はいま
市中心部の「津嘉山(つかやま)酒造所」は1928(昭和3)年に完成し、泡盛「國華(こっか)」の醸造を始めた。戦前の最盛期には、年8万8千リットルを製造したという。
敷地は約600坪。住宅と工場が一体化した平屋が立つ。住宅部分は琉球風の客間が並ぶ「主屋」と、茶道具を並べる違い棚を備えた日本古来の書院造りの離れが廊下でつながっている。工場部分は柱の少ないトラス構造の広い空間に、蒸留装置や地中に埋まったタイル張りの貯蔵タンクなどがある。
沖縄本島に米軍が上陸した45年4月、名護中心部の建物は次々と火炎放射で焼き払われたが、酒造所は米軍が接収し、事務所やパン工場として使われたという。離れにつながる廊下の柱には「OFFICERS QUARTERS(将校宿舎)」の文字が残る。
戦後は49年ごろから製造を再開。82年から8年ほど休業を挟んだが、今も従業員2人が泡盛づくりを行っている。年間の製造量は1万リットルほどで、県内大手の数日分だが、工場長の幸喜行有(こうきこうゆう)さん(59)は「手作業にこだわって造り続けたい」と話す。
市民らは2005年に「津嘉山(つかざん)酒屋保存の会」を結成し、国に保存を要請。09年に重要文化財に指定された。11年から文化庁が約4億2千万円をかけて修復を進め、改造された部分は、可能な限り建築当時の状態に復元した。
保存の会会長の岸本林(はやし)さん(62)は「家を失った人たちがすし詰め状態で暮らした歴史もあり、名護の戦後が始まった場所とも言える」と話す。沖縄と本土、米国の要素が同居する古い酒蔵を名護の「迎賓館」にするとの夢も描く。
午前10時~午後4時半は見学もできる。問い合わせは津嘉山酒造所(0980・52・2070)へ。(伊藤宏樹)