被爆体験の講話に出てくる長崎の爆心地近くの遺構を、ゆかりのある語り部と修学旅行で訪れる――。そんな取り組みを始めた小学校が北九州市にある。話で聞いた場所に実際に足を運べば、より記憶にとどまるのではないか。そう考えた校長が昨年からコースに組み入れた。今年も15日に訪問し、その場で被爆者が体験を語る。
「想像してごらん。原爆で、人間も木も建物も何にもなくなったんだよ」
長崎の爆心地から約1キロにある聖マリア学院小学校(長崎市若草町)。敷地内の駐車場には、L字形に保存措置がされた建物の土台が残る。その遺構のそばで、北九州市門司区の被爆者、大石勇次郎さん(91)が、市立白野江小学校の6年生23人に語りかけた。昨年11月、修学旅行で訪れたときのことだ。
聖マリア学院小は、原爆投下時に大石さんが暮らしていた三菱造船所の清明寮の跡地に立つ。
小倉工業学校(現・福岡県立小倉工業高)を卒業後、18歳で長崎市の三菱造船所に就職した大石さんは1945年8月9日、工場に出勤していた。しばらくしてピカッと空が光り、ドッカーンという大音響とともに、トタン屋根と土煙が舞い上がった。
工場は爆心地から3キロ以上離れていた。歩いて寮に向かうと次第に遺体が増えていった。着いたのは夜更け。木造3階建ての寮は跡形もなく焼け落ちていた。
先に戻っていた寮生と無事を確かめ合っていると、黒く焼けた人がはって、足をつかんで問いかけてきた。「寮母は知らんね?」。寮長だった。他の寮生から「知らんと言うとけ」と言われ、そう答えた。寮母はすでに亡くなっていた。一夜明けると寮長も息を引き取った。みなで、2人の遺体に手を合わせた。
大石さんは10年以上前から母校の白野江小などで被爆体験を語り、修学旅行にも自費で合流して、ガイド役を務めてきた。そんな大石さんの講話を聞き、修学旅行のコースに寮の跡地を組み入れることを思いついたのは昨年、赴任してきた浦田一幸校長だった。
浦田校長は、戦争の体験談を自分に直接関係ないと思う子どももいるのではないか、と感じていた。「少しでも記憶にとどめてほしい。将来大人になって長崎に行った時に思い出してくれれば」。休日返上で聖マリア学院小を下見のため、訪れた。
聖マリア学院小では、修学旅行で訪れる小学校の受け入れは初めてだったが、中村洋校長は快諾してくれた。昨年は、屋上で児童が爆心地の場所を説明するなど子ども同士の交流も図った。「原爆を記憶にとどめてもらえるし、こちらの児童も勉強になる」
大石さんは亡くなった人たちの弔いのため、これまでも1人で聖マリア学院小を訪れてきた。あの日、本当は月に1、2回しかない休みで非番の同僚数人と遊ぶ予定だった。寮長から急に出勤を指示され、渋々工場に向かった。もし寮で休んでいたら、自分も犠牲になっていた。その同僚の安否は今もわからない。
「1発の原爆で何万人の人が亡くなった。戦争はしてはいけない」。これからも子どもたちに伝えていきたいと考えている。(伊藤繭莉)