宮崎県高千穂町の山あいで起きた土呂久ヒ素公害をめぐり、告発者の元小学校教諭、齋藤正健さん(75)が宮崎大で講演した。豊かな自然と公害の歴史を持つ土呂久を訪れてみるよう呼びかけた。
「一家の大黒柱、生まれたばかりの赤ちゃん、恋愛盛りの若い世代、土呂久では毎年のように次々と人が死んでいった。どんなに苦しかったか」
齋藤さんは宮崎大を卒業後、小学校教諭として1966年に高千穂町の岩戸小に赴任。そこで土呂久の子ばかりが「胸が痛い」と苦しみ、病気がちなことに気づいた。土呂久を訪ねると、不自然に草木の生えていない山や、鉱山跡から出る水が流れ込む川が遊び場になっていた。
不安に思い、教員仲間と住民にアンケートを実施。「92人の住民が平均39歳で亡くなった」ことがわかった。住民への聞き取り調査や鉱山の歴史を調べ、死因や病名を書き込んだ手書きの地図を作った。
71年に教員の研究集会で発表。戦前から続いていた亜ヒ酸鉱山の健康被害を明らかにした。医師や弁護士らの救済活動が始まり、国は公害病に指定した。
齋藤さんは当時の聞き取り調査でテープに録音した住民たちの肉声も流した。「いまはもうどことなしに(体の)いっぱいが痛い」「ぜんそくが出て、手もしびれる、鼻も利かんと何を食べても味がしない」
告発から3年後、転勤を言い渡された。土呂久の人たちは病気の体でお別れ会を開いてくれ、「ありがとう」と笑顔で送り出してくれた。転勤後、数年のうちに、次々に亡くなったという知らせが届いた。
ヒ素による慢性ヒ素中毒症は何十年もたってから発症するなど住民を苦しめた。「見つけただけ」で支援を続けない自分に引け目を感じ、講演や取材依頼は断ってきた。教頭や校長になり教職を勤め上げた。
いま、告発から半世紀が経った。住民は鉱山側と和解し、土呂久にも自然が戻った。しかし人口は当時の4分の1以下の35世帯78人に。歴史を伝える資料館や看板もない。「風化を防ぎたい」と今夏、初めて講演会を開いた。告発当時「公害はない」として対立した県から講演依頼があったことも背中を押した。
2回目の講演は、28歳で告発した日と同じ11月13日、母校での開催となった。土呂久パネル展に合わせたもので、当時の話を聞こうと学生や県内外から約70人が集まった。
齋藤さんは最後に今の自然が戻った土呂久の写真を見せ、「豊かな自然と公害という悲惨な歴史を持つ土呂久は、自然のありがたさと命の尊さを教えてくれる。皆さん、訪ねてみてほしい」と訴えた。(小出大貴)