「産業のコメ」といわれた半導体は1980年代半ば、日米経済摩擦の焦点となった。19日に公開された外交文書からは、日本に輸入の数値目標受け入れを迫る米国と、抵抗する日本の激しいやり取りが浮かび上がった。当時の米国の姿は、「アメリカ・ファースト」を掲げて通商問題で譲歩を迫る現在のトランプ政権にも通じる。約30年前の交渉経緯を、当事者の証言も交えてたどった。(〈 〉内は外交文書から。敬称略)
「外国製半導体のシェア20%に」秘密書簡 日米協議
【特集】外交文書公開
80年代に入り日本の半導体産業は急成長し、米半導体業界は、日本が不公正な貿易慣行で米製品輸出を妨げていると訴えた。86年5月19日、日米半導体協定をまとめるための政府間協議が開かれた。
米ワシントンでの通商担当次官級協議では、米製品の日本への輸出をどう増やすかが焦点となった。
〈通商産業審議官・若杉和夫 (日本半導体メーカーの)主要11社以外にも5年先の米系半導体のシェア(市場占有率)の数字を出すよう説得している。〉
〈通商次席代表・スミス 米側業界は日本市場でのシェアがteen(13~19%)では納得しない。〉
米側は、日本市場の外国製品のシェア「20%」の明記にこだわる。日本側は〈「何の根拠もない20%という数字をいきなり示しても(日本の)業界の協力は得られない」〉と反論した。翌日の協議でも、〈「5年後に20%にするには米国製の購入増は日本製の2・5倍のペース。バイ・アメリカン(米国製品を買おう)だ」。〉業界に指導はできても、「20%」の明記は露骨だと拒んだ。
数日後の5月28日。今度は東…