日米経済摩擦が激化した1980年代半ば、日本の半導体輸出入に関する協定とともに作られた非公開の「サイドレター(付属文書)」が、19日の外交文書公開で開示された。秘密書簡に記された日本の輸入増に関する数字が実現せず、米国による対日経済制裁を招いた経緯も明らかになった。
1986年の「バイ・アメリカン」 今に続く圧力の源流
【特集】外交文書公開
外務省は今回の外交文書公開で、日米半導体協議に関し作成から30年経った86~87年の文書を開示。秘密書簡の概要はその後に交渉関係者らが証言しているが、日本政府による全容の開示は初めてだ。
戦後日本の輸出拡大に伴う日米経済摩擦は、80年代には自動車に続き半導体をめぐって激しくなった。
両政府は86年9月、日本市場での外国系半導体の販売拡大と、日本企業によるダンピング輸出防止に関する日米半導体協定に署名。それを補う形で「書簡の交換により記録する」として、松永信雄駐米大使とヤイター通商代表がやりとりした書簡をサイドレターとして、存在を伏せた。
サイドレターでは「外国系半導体の販売が5年で少なくとも日本市場の20%を上回るという米国半導体産業の期待を、日本政府は認識」と明記。「この実現を日本政府は可能と考え歓迎する」とし、達成は外国や日本の業界に加え「両政府の努力による」とした。
だが、翌87年には日本市場でシェアが伸びないとして米国で業界や議会の批判が強まり、米政府が通商法301条による4月からの制裁を予告、直前に日米緊急協議が開かれた。
今回開示されたこの協議の記録によると、米側は日本の努力が足りず、サイドレターに明記された「20%」にほど遠いと主張、日本側は20%は数値目標でなく制裁は不当と訴え、決裂した。米政府は日本製のパソコンやカラーテレビなどに高関税をかける戦後初の本格的な対日経済制裁を発動し、日本政府は関税貿易一般協定(GATT)に訴えた。
事態が緊迫する中で4月30日から開かれた日米首脳会談でも決着しなかった。中曽根康弘首相は5兆円以上の緊急経済対策や利下げによる「内需拡大」を説明し、制裁を「(6月の)ベネチア・サミット前に撤回してもらえれば政治的に助かる」と要請。レーガン大統領は理解を示すが、同席のヤイター代表が日本市場でのシェア拡大などの「結果次第」と撤回時期の明言を拒んだ。中曽根氏が「今次訪米でいつかを明らかにするのは自分の使命だ」と押しても譲らなかった。
日米両政府は91年に「20%以上という米業界の期待」と「日本政府は保証しない」を併記する新協定を結び、米政府は制裁を中断。その後の「20%」実現や米業界の復調で96年で協定は終了した。
「日米破局、避けるため」当時の担当者
「サイドレター」は竹下内閣当時の88年に元米商務省高官が著書で指摘したが、国会では通産省幹部が当初存在を否定。89年に三塚博通産相が「輸入促進で、半導体の目標値がサイドレターだった」と存在は認めたが、宇野宗佑外相が答弁した「国際的約束ではない」という見解を外務省は今も保っている。
今回の文書公開をふまえた取材で、当時外務省と通産省の担当課長同士だった田中均氏と渡辺修氏は、2人でサイドレターの原案を書いたと認めた。田中氏は「シェアの約束ではなく、日本が市場を開く姿勢を米国に示すことが国益と考えた」、渡辺氏は「日米の破局を避けるための『不合意の合意』だった」と語る。
ただ、半導体大国の日米が輸出入の数値を記す文書を交わせば自由貿易体制を傷つけかねず、実際にその後の日米経済摩擦に拍車をかけた。米側は半導体協議を「成功」とみて自動車部品などでも数値目標を迫り、日本側は「失敗を繰り返すな」と拒み続けることになった。
現在の米トランプ政権も他国市場を閉鎖的と批判している。元外務省幹部は「サイドレターは日米で同床異夢の文書を作るべきでないという教訓だが、引き継がれているか不安だ」と語る。中国でも「80年代の日米関係は今の中米関係と似ている」(許小年・中欧国際工商学院教授)として「教訓」への関心は強い。(専門記者・藤田直央)
■日米半導体協定の「サイドレタ…