作家の早乙女勝元さん。自宅の書棚には多数の著書や空襲関連の書籍が並ぶ=東京都内、西村悠輔撮影
「焼夷(しょうい)弾攻撃だけで一夜にして10万人もの人が亡くなったというのは、核兵器の被害と何ら変わらない。通常の火薬兵器でも核並みの被害を出すんです」。そう語るのは、作家の早乙女勝元さん(86)。館長を務める東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)によると、原爆被害を除く全国の空襲による民間人の死者数は、東京23区と約530市町村で推定約20万3千人に上る。2014年11月に地域史を調べて積み上げた数字で、これは二つの原爆で亡くなった犠牲者(広島14万人、長崎7万人)に匹敵するという。
「負の連鎖」エスカレートした無差別爆撃 空襲とは何か
焦土と化した日本「空襲1945」 あの日の惨禍、写真は語る
12歳の時、東京大空襲を経験した。あの夜のことを、こう著書に記す。
《黒煙と火焰(かえん)の裂け目から現れるB29は、驚くばかりの超低空で、ジュラルミンの巨体に地上の炎群が、まだら模様に映えている。ドドドッ、ズズズッという石油タンクが爆発するような怪音。火焰を吸いこんだ突風が迫ってくる》(2018年出版『その声を力に』から)
広島原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」。ジュラルミン製の機体は異様な輝きを放っていた=2018年11月3日、米バージニア州シャンティリー、西村悠輔撮影
1945年3月10日未明、早乙女さんは墨田区向島にあった自宅から、父母と姉とともに、リヤカーに寝具や衣類、調理道具などを積んで避難した。火の粉が街を覆い尽くし、幼子の横で火の塊となりもがく男性。近くにいた家族の姿が見えなくなり、火柱と化した電柱が迫り来る寸前に、炎の隙間から飛び込んできた父に救われた。
教科書になかった大空襲の記述
1970年に発足した「東京空襲を記録する会」に、早乙女さんは発起人の1人として加わった。背景にはベトナム戦争があった。60年代後半、沖縄の米軍基地を飛び立ったB52爆撃機がたびたび北ベトナムを空爆。下町で反戦集会に携わるなか、教科書では広島・長崎の原爆に触れても、東京大空襲の無差別爆撃に関するくだりはほとんどないことに気づいた。首都最大の受難史ともいえる惨禍の記憶を後世に伝えたい。その思いは「記録する会」の結成につながった。
東京上空に現れた米軍B29爆撃機=1944年11月24日、多摩川上空、米軍撮影
5千点もの資料が集まり、300人以上の空襲体験者が証言したビデオも収録した。東京都が建設を進める「平和祈念館」にまとめられるはずだったが、1999年、財政難などを理由に建設計画は凍結。急きょ記録する会と財団法人政治経済研究所が募金を呼びかけ、2002年3月9日に「民立民営」による東京大空襲・戦災資料センター開館にこぎつけた。展示室も設けたが、資料やビデオの多くは都の所管する倉庫に眠ったまま。証言映像の協力者には亡くなった人も多く、早乙女さんは「今となっては貴重ですね。二度と聞けませんから」と、資料の活用法に頭を痛める。
早乙女勝元さんが見た空襲写真
東京空襲写真集を監修したこともある早乙女勝元さんに、朝日新聞デジタルの特集「空襲1945」に収録した写真群を見てもらいました。早乙女さんは記憶の継承について、危機感を募らせています。
■空襲写真は何を…