10万人近くが犠牲になった3月10日の東京大空襲から、まもなく74年。その節目にあわせ、朝日新聞デジタルは、ビジュアル特集「空襲1945」(https://www.asahi.com/special/kushu1945/)を公開しました。米軍による日本本土空襲が最も激しくなった1945年を中心に、戦中・戦後の写真300枚を集め、あの日の惨禍を伝えます。
早乙女勝元さんが語る東京大空襲「核並みの被害だった」
「負の連鎖」エスカレートした無差別爆撃 空襲とは何か
【特集】焦土と化した日本「空襲1945」 あの日の惨禍、写真は語る
がれきの中、たくましく生きる姿
朝日新聞社の倉庫には、戦時中や終戦直後に撮影された大量の写真やネガフィルムが保管されています。焼夷(しょうい)弾で焦土となった街や焼け落ちた局舎など、爆撃のすさまじさを伝える写真が数多くあります。しかし当時は政府の統制下にあり、空襲の被害を報道できず長く埋もれたままになっていました。
劣化する所蔵写真の保存対策として朝日新聞フォトアーカイブがデジタル化を進め、このうち空襲に関する写真をまとめたデジタル版の特集ページを制作することに。自社カメラマンによる未公開ネガや、米軍提供の空撮写真などを含む300枚を地域ごとに整理して公開することにしました。
この中には、がれきの中でぼうぜんとたたずむ子どもを背負った母親らしき女性の姿や、防火水槽で顔を洗う市民を写したものもあり、当時の人たちの素のままの表情がうかがえます。また、焼け野原になった大阪・道頓堀周辺を撮影したカットをつなぎ合わせたパノラマ写真もあり、PC版では左右に動かして見ることができます。
米公文書館で入手の動画も
ページ冒頭では、空襲の猛威を伝える動画を展開。米国立公文書館から入手したフィルム映像を組み合わせたもので、このうち米軍機が地上の建物や列車、船などを機銃掃射するカラー映像は、引き金と連動した「ガンカメラ」の映像で、戦果の確認や新兵教育などに使われたといいます。これに、1945年制作の米軍の短編映画「The Last Bomb」からB29が大量の爆弾を落とす映像などを織り交ぜて制作しました。
焼夷弾とは?アニメーションで
米軍が日本攻撃用に開発し、東京大空襲などで猛威を振るった「M69焼夷弾」については、その製造工程や燃焼実験をとらえた記録映像を同じく米公文書館から入手。落下して爆発、延焼するまでのメカニズムをCGアニメーションでわかりやすく図解しました。
また、各地の空襲の被害については、東京大空襲・戦災資料センターから提供された集計データを元に、動くインフォグラフを制作。41万人を超える民間犠牲者については、各都道府県別の人数を示したほか、空襲を受けた地点を日本地図に落とし、被害規模を円の大きさで示しました。
写真は「時代を記録する」
空襲写真を今に伝える意義について、全日本写真連盟会長で写真家の田沼武能(たけよし)さん(90)は「戦時中は統制下でフィルムも手に入らず、憲兵が怖くて一般人は写真など撮れなかった。撮影できたのは、新聞社のカメラマンや警察官ぐらい。誰もがスマートフォンやデジカメで気軽に撮れるようになった今とは大違いでした」と話します。
浅草生まれの田沼さんは16歳の時に東京大空襲に遭い、父親と命からがら自転車で避難して生き延びました。「夜中なのに、まるで昼間のようだった」。四方が火の海と化した街の光景を鮮明に覚えているといいます。
「写真とは本来、時代を記録するもの。何十年と時が経つほどに歴史的価値は高まる。中心にある被写体そのものよりもむしろ、周囲に写り込んだものから、現場の空気感が伝わってくるはず。その時、何が起きたのかに、思いをはせてほしい」と話しています。(西村悠輔)
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