市民約800人が犠牲になった四日市空襲から6月18日で74年を迎える。毎年この時期に三重県四日市市が開いている「四日市空襲と戦時下のくらし」展で、15年近く語り部を続けている同市の近藤賢次さん(82)は今年も話すつもりだ。「戦争になれば、誰もが巻き込まれる。だから起こさないことが大切なんだ」
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近藤さんは1937年、印刷工の父の3男として生まれた。「いまのJR四日市駅近くの繁華街で、床屋にうどん屋、芝居小屋まであった」と振り返る。
だが、街は8年後、焼き尽くされる。45年6月18日未明、90機近い米軍のB29戦略爆撃機が四日市市を襲い、市街地は約1万発の焼夷(しょうい)弾で壊滅し、5万人近くが被災した。
当時3人暮らしだった近藤さんは、父母に連れられて近くの広場に造られた防空壕(ごう)に向かったが、すでに避難してきた市民であふれていた。北の空を見ると、爆弾が火の粉のように降り注ぎ、夕焼けのように真っ赤だった。「南へ向かおう」。3人は道の両側で建物が焼け崩れるのを避けながら逃げ、たどり着いた田んぼのあぜ道に座り込んで、一夜を明かした。
「逃げるのに必死だった。怖くなったのはその後だった」。翌日、家の様子を見に戻る途中で、目にした悲惨な光景の数々。リヤカーに乗せられた黒こげの死体。地面に突き刺さった不発弾。防空壕は崩れ、自宅にあったガラス食器はあめのように溶けていた。
近藤さんは当時、国民学校3年生。「神社で戦勝を祈願し、『お国のために』を当然のことと受け止めていた。私も軍国少年だった」と振り返る。しかし、敗戦まで、その後も空襲を体験するなかで、死への恐怖が日増しに強くなっていった。疎開先で「玉音放送」を聴いた際には、「もう逃げなくていいんだ」と安堵(あんど)したという。
定年退職後、2001年から、…