ミサイル防衛(MD)待望論が目立つ。北朝鮮の脅威が強まる昨今、早期配備への期待が高まるのも無理はない。だが、MD配備は本当に日本の安全に寄与するのかどうか。こんな時だからこそ、じっくり考えてみたい。
私は一時期、パトリオット(米軍のミサイル迎撃システム)のおかげで生き延びたと思っていた。91年の湾岸戦争時に滞在したサウジアラビア東部には、夜ごとイラクのスカッドミサイルが飛来したからだ。
当初はミサイルの直撃はなかった。そのうちに、空襲警報が鳴るとホテルの屋上へ行くようになった。パトリオットがスカッドに命中したのか、大輪の火花が夜空に広がる。拍手する私は「パトリオット神話」の信者になっていた。
過信である。まもなくホテルに近い米軍宿舎がミサイル攻撃を受け、多くの米兵が死んだ。イスラエルの状況はサウジより深刻で、パトリオットの命中率は40%とされたが、この数字もあてにならない。米国は最愛の同盟国イスラエルを十分に守れなかった。
戦争後、米マサチューセッツ工科大(MIT)のセオドア・ポストル教授らは、ビデオ映像を基に「パトリオットはまったく役に立たなかった」との見解を示した。「大輪の火花」やスカッドの残がいを見た私は、にわかに承服できないが、要は命中率が極めて低いということだ。
98年8月、私がワシントンに赴任した直後に北朝鮮がテポドンを発射した。米国ではMD(当時は米本土ミサイル防衛=NMD)の早期配備を求める声が一気に高まった。今の日本の世相に似ている。
違うのは、米国の科学者たちが積極的に発言した点だ。ポストル教授は「今のシステムでは迎撃は無理」と語り、配備は政治ではなく科学の問題であるべきだと強調した。00年にはノーベル賞を受賞した50人の科学者が大統領に配備反対の書面を送った。
日本でも科学的な議論がもっと必要だ。なるほどMDは「政治的装置」の側面を持つかもしれない。命中率に疑問があろうと、配備コストが高かろうと、日本上空に核ミサイルが飛来する事態を思えば、配備しない方が無責任だという意見もあるだろう。
だが、MDの迎撃能力を過大評価すれば長期的戦略を誤り、かえって日本の安全を危うくする。米軍再編の費用負担のように米国ペースでMDを導入し、後で法外なお金を払わされるのもごめんだ。日本自身がMDの有効性と限界をとことん調べるのは当然である。
一口にMDといっても米国と日本のシステムは異なるが「弾丸で弾丸を撃ち落とす」難しさは共通する。敵国がミサイルの弾頭を複数(多弾頭)にしたり、おとりを使った場合は、さらに迎撃が難しくなる。こうした問題点に関する数式を見たりすると、科学者の出番だな、とつくづく思う。
ただ、文系人間にも分かるのは、「MDは専守防衛」という主張の危うさだ。弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の失効に対応して、米露が攻撃兵器(核弾頭数)と防御兵器(MD)をセットで交渉する方式を取ったように、防御力も攻撃力も、ともに戦力である。
自国はMDを配備しながら他国の攻撃力増強を批判するのは無理筋だろう。配備を推進するなら、東アジアの軍拡を覚悟しなければならない。現にロシアは米国の迎撃網をかいくぐる新型ミサイルを開発し、中国もミサイルの多弾頭化を進めているという。
米国の迎撃実験のたびに私は国防総省に待機した。天気が悪いと実験は何度も延期される。慎重を期した実験もみじめな失敗に終わることが少なくない。たまに迎撃に成功しても「命中するよう標的のミサイルから誘導信号を出していた」などの疑惑が生じる。それが02年秋に私が帰国するまでの状況だった。
だから、ブッシュ政権が04年にMD初期配備に踏み切ったのは見切り発車としか思えないが、日本政府には慎重を期してほしい。まず配備ありきではなく、MDの問題点や限界、「最終的にいくらかかるか」という問題について国民の理解を得ておくべきだ。
たとえば、湾岸戦争で使われたパトリオットの改良型(PAC3)は、日本のMDの重要な要素だが、PAC3の守備範囲は半径15~20キロと狭い。高価なPAC3を盲点なく日本中に並べるのは無理だし、たとえ並べても迎撃能力には疑問符がつく。
一般的なミサイル防衛の開発・研究は有意義だと思うが、技術的な限界は直視すべきだ。「MDさえあれば大丈夫」。そんな錯覚を国民に与えてはいけない。その後でばく大な請求書を国民に突きつけてはいけない。
毎日新聞 2006年7月26日