「2008年のリーマン・ショックから回復しても、グローバル経済はレバレッジに頼って高成長を遂げてきた以前のような姿には戻らない」。世界最大の債券運用会社ピムコの最高経営責任者(CEO)であるモハメド・エラリアン氏がそう警鐘を鳴らした際、同氏は「ニューノーマル」という表現を用いていた。改めて調べてみると、当時の日本経済新聞では「ニューノーマル」という表現の後ろに、「新たな常識」とか「新しい正常や常識」といった直訳の説明を付け加えていた。
「ニューノーマル」と「新常態」
だが、「百年に一度の経済危機」や「先進国と新興国のデカップリング」といった当時の流行語に比べると、「ニューノーマル」の存在感は薄かった。エラリアン氏の警鐘とは裏腹に、その後、少なくとも米国経済や米株式市場がV字回復を実現したことで、「ニューノーマル」はついに「常識」になることはなかったからだ。
一方で、リーマン・ショックが起きて5年ほど経った頃から、中国では「新常態」という表現が流行り始めた。筆者は2014年に米国で機関投資家らに向け中国経済について説明した際、英語でこの「新常態」をどう解釈したらいいか、少々戸惑った経験がある。中国の「新常態」は果たしてエラリアン氏が使っていた「ニューノーマル」と同じ意味なのか、いまひとつ自信がなかったのだ。そもそも、2014年5月11日に河南省を視察した習近平国家主席が、公の場で初めて「新常態」という表現を披露した際、エラリアン氏の「ニューノーマル」を意識したかどうか、知る由もない。いずれにしても日本では、中国経済を語る際、「新常態」という表現が頻繁に登場するようになり、その後ろに必ずと言っていいほど「ニューノーマル」という解釈が付けられているようだ。
2014年11月9日に北京でアジア太平洋経済協力会議(APEC)ビジネスサミットが開かれた際、習近平国家主席は講演で中国経済の「新常態」について、(1)高成長から中高成長への転換(2)経済構造の転換(3)投資から技術創新への成長ドライバーの転換――を挙げた。この説明を聞くかぎり、確かに経済成長が高成長から中成長時代へ突入する点では、「新常態」と「ニューノーマル」は一致していると言えそうだ。一方、経済構造や成長ドライバーの転換については、1990年代から歴代政権が取り組んできた課題であり、特に新味のある話とは言えない。だとしたら、中国経済が目指している「新常態」とは一体どのような状態なのだろうか。
筆者が「新常態」に関する習近平国家主席の説明を聞いた瞬間、頭に浮かんできたのが上海だ。2000年代前半、上海に3年間駐在したこともあってそれなりに土地勘があるからかもしれないが、中国最大の経済都市である今日の上海経済は、「新常態」に突入する明日の中国経済の姿ではないかと薄々感じている。その根拠は以下の2点である。
1つは投資主導型から消費主導型への成長モデルの転換だ。長年、計画経済の優等生だった上海経済は1990年代、浦東大開発を起爆剤に改革・開放を加速させた。その結果、実質国内総生産(GDP)が1992年から16年連続で2ケタ成長を達成するなど、全国平均を大きく上回る高成長を謳歌してきた。しかし、2008年以降、息切れ感が強まり、2014年の実質GDP成長率は7.0%と、2004年(14.2%)の半分以下に減速したのみならず、全国の7.4%をも下回った。
成長率が大きく鈍化しているのは他の地域も同じだが、特徴的なのは、その成長の中身が大きく変化している点だ。例えば、2014年の上海市の小売総額は前年比11.4%増と全国(12%増)をやや下回る程度だったが、固定資産投資額は同6.5%増と全国(15.7%増)を大幅に下回った。その内訳をみると、インフラ整備投資が1.3%増、不動産開発投資が13.7%増、製造業投資が6.5%の減少だった。
全国でみると、依然として固定資産投資の伸び率が小売総額の伸び率を上回り、インフラ整備や不動産開発など固定資本形成が成長のけん引役であるのに対し、上海では2007年後半以降、両者の逆転が続いており、個人消費が成長のけん引役として定着しつつある。中央政府は2015年に、全国の実質経済成長率目標を前年の7.5%から7.0%に引き下げる可能性が高い。7%前後の実質GDP成長率が中国経済の「新常態」の一つの特徴だとすると、果たして上海市のように固定資産投資の伸び率が1桁に減速しても、この目標を達成できるのか、その成長の中身も上海に近づいてくるのかどうかが注目点になろう。
もう1つは経済のサービス化だ。経済構造の転換については、産業構造の面からも、高度化やサービス産業の拡大が課題になっているが、こちらも上海は既に全国の最先端を走っている。上海の名目GDPに占める第三次産業の比率は1999年に50%を超え、2014年には64.8%まで上昇した。一方、全国の名目GDPに占める第三次産業の比率は2014年で48.2%と、上海の1998年に相当する水準にすぎない。歴史や立地、所得、教育水準などの条件が異なるため、すべての地域が上海と同じ産業構造になることはありえないが、上海モデルが他の地域にとって「追いつき追い越せ」の対象になってくるのは間違いない。国務院が上海自由貿易区の設置を認可した際の条件として、他の地域にも適用できるような開放モデルを確立するよう求めていることからも、経済のサービス化のけん引役としての上海に対する期待の高さがうかがわれる。
さらに、経済成長の最終目標が国民の生活を改善することにあるという観点からも、かつて上海市のトップを務めたことのある習近平国家主席は中国経済の「新常態」を語る際、上海経済を意識しているかもしれない。中国国家統計局によると、2014年の全国の1人当たりの名目可処分所得は、都市部が2万8844元、農村部が1万489元となっている。これに対し、上海市は都市部で4万7710元、農村部で2万1192元に上る。他の指標(2014年)を見ても、エネルギーの経済効率を示すGDP当たりのエネルギー消費量(前年比8%減)、GDPに占める研究開発費用の比率(3.6%)、1万人当たりの特許保有件数(23.7件)、対内直接投資導入額(182億米ドル)など、いずれも全国でトップレベルの実績を誇っている。
もっとも、上海に倣えば中国経済の「新常態」が実現できると楽観視するのは禁物であろう。「新常態」の最前線を走っている上海市の行き詰まり感が強まっているためだ。
2015年1月下旬に開催された上海市の「全人代」で楊雄市長は、上海市が直面している課題として、(1)イノベーション創出の不足(2)不完全な市場化改革(3)都市部と農村部における基本公共サービスの格差(4)水、空気、土壌の深刻な汚染――などを挙げている。
残念ながら、その根底にある国有企業改革、市場化改革などはいずれも上海市の自助努力だけでは解決不可能であり、上海も中国経済の「旧常態」にどっぷり浸かっていると言わざるを得ない。そして上海の現状は、経済特区を設置したり沿海地域を開放したりしながら、石橋を叩くように進めてきた従来の成功体験が、もはや通用しないことを意味する。
上海市が直面している限界はいずれ、中国経済の「新常態」の限界にもなりかねない。習近平政権が中国経済の「新常態」を実現させるためには、政治や社会、経済など既存レジームの大変革を避けて通ることはできないだろう。