1600年 関ケ原合戦
東軍の徳川家康と西軍の石田三成が激突し、天下の行方を決めたといわれる関ケ原合戦(関ケ原の戦い)。この夏、原田眞人監督で映画化されるなど、私たちにはおなじみの歴史だが、戦いの経緯や陣立てを巡って異論が提起されている。
私たちが知る関ケ原合戦は、以下のような経緯とされる。
慶長5(1600)年7月、豊臣政権五大老の1人、徳川家康は上杉景勝の討伐のため、江戸城にいた。この時、同政権の奉行衆が家康を弾劾(だんがい)する「内府ちかひの条々」を公表。家康は対抗するべく武将をまとめて東軍を編成。西へとって返す。
9月15日、関ケ原(今の岐阜県関ケ原町)で開戦。中山道を進む別動隊を率いた家康の三男・秀忠が合戦に間に合わないなどのアクシデントはあったものの、西軍の有力武将・小早川秀秋が家康に撃ちかけられた鉄砲(問鉄砲)に驚いて裏切ったこともあり、西軍が瓦解(がかい)。同軍を実質的に率いた石田三成は逃亡後捕らえられ、処刑された。
だが、こうしたストーリーは大半が眉つばものらしい。
『新解釈 関ケ原合戦の真実』などの著書がある別府大学教授の白峰旬さん(近世史)は、「上杉討伐軍の武将たちが家康に味方することを決めた小山評定など、関ケ原合戦へ至る有名なエピソードのほとんどは江戸時代中期以降の『軍記物』にしか出てこない」と話す。
たとえば、関ケ原合戦の勝敗を…