京都の大学を卒業し、20年以上引きこもった経験を持つ女性(46)がこの春、初めて人と向き合う仕事を始めた。新聞の集金に購読者宅を回る。決して考えられなかった「人に話しかける」仕事。緊張で手が震え、おつりを落としてしまうこともあるが、少しずつ手応えをつかんでいる。
「こんにちは」「今日は良い天気ですね」。お客さんの家に向かう途中、女性は自転車をこぎながら、ずっと「一人でぶつぶつと」発声練習をする。少しでも自然にお客さんと会話が始められるようにするためだ。自分の緊張を和らげる工夫でもある。
家に着いてもすぐにインターホンは押さない。電卓を取り出して実際にキーをたたき、おつりを入れたケースの小銭の位置を確認する。苦手なおつりの受け渡しのシミュレーションだ。「どうしてもお客さんの前で計算すると手が固まってしまうから」。準備体操のようにグー、パーを繰り返し作って手をほぐした後、お客さんと向き合う。
女性は高校時代、にぎやかなクラスになじめず、ストレスによる腹痛に苦しんだ。大学でも「おなかが痛くなるのでは」という恐怖がつきまとい、孤立を深めた。30社受けた就職活動も全滅し、両親の住む自宅で引きこもりを続けた。
6年前、父親(74)にがんが見つかり、「このままだと共倒れになる」と目が覚めた。引きこもり支援団体の紹介で、週に3日のちらし配りを始めたのが昨年5月のこと。生まれて初めて受け取った給料の5千円札を何度も眺め「私も必要とされているんだ」と涙ぐんだ。今年2月、信頼する知人から「集金の仕事を手伝って」と頼まれ、悩んだ末に挑戦することにした。
最初はお客さんから1万円札を手渡されても、何と言えば正解なのか分からなかった。おあずかりします、いただきます、ちょうだいします? 「社会人経験がないものだから、全然自信がなくて」。おつりを間違えれば信用されなくなると焦り、逆に計算ミスをしてしまうことも。暗い雰囲気だけは出したくないと、練習した「作り笑顔」で相手と向き合っている。
最近、自分から「手際が悪くてすみません」と言えるようになった。お客さんを待たせてしまっても、玄関先の空気が緩めば落ち着いて作業できる。長年、携帯電話が時計代わりだったが、2千円の腕時計を買った。女性にとって高い買い物だったが「お客さんの時間に合わせた仕事をしている」との自覚からだ。
女性のささやかな誇りは集金中に首から下げるプラスチック製の従業員証。手にしたとき、思わずうれしさがこみ上げた。20年以上にわたって自宅に引きこもっていた女性。学校以外、何の組織にも所属したことはない。「これを見ると、私だって社会の一員になれたんだ、と思えるから」
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高年齢化する引きこもりの人たちの取材を通じ、女性に初めて会ったのは昨年の夏。45歳で受け取った初月給について「いまも涙が出そうです」と目を細めて振り返る姿が印象に残り、同年8月27日付の記事で紹介した。
取材の際、女性はいつも事前に近況をノート数ページに整理してくる。「私は話がうまくないので」とはにかむが、誠実な人柄の表れだろう。昨年に比べ、会話中の笑顔がずっと増えた。私もすっかりうれしくなってしまった。(安倍龍太郎)