学校で原爆の講話を聞くのが苦手だった女性が、被爆者の人生をつづる本を書き始めた。長崎市の松永瑠衣子さん(26)。きっかけは、高校生の時、一人の語り部と出会ったこと。被爆者の思いを受け止めるには、自分たちと同じような日常があったと気づくことが必要――。自分の経験を生かそうと、教員を辞め、この春から執筆に専念している。
長崎市の学校では毎年夏に向けて、被爆者を招いた講話会が開かれる。松永さんは小中学生のころ、講話を聞くのが気が重かった。原爆投下直後の様子や家族を亡くした話を聞くと怖くて悲しくなるからだ。大勢の子どもを前に話す被爆者を、心のどこかで「かわいそうで特別な人」とも思っていた。
それが変わったのは高校1年だった2008年。当時参加していた学校外の活動で、語り部として長年活動する被爆者の下平作江さん(83)の証言を映像で記録した。下平さんは爆心地から約800メートルの長崎市油木町の防空壕(ごう)で被爆。妹は戦後、差別に苦しみ自ら命を絶った。「私には死ぬ勇気がなかっただけ」。最後に思いを託すように「平和のバトンをあなたに」と松永さんの手を握った。
目の前で向き合い、温かい手に触れて、思った。被爆者は「特別な人」じゃない――。自分たちと同じような日常に原爆が落とされたのだと気づいた。
平和や社会の問題を考えられる人を育てたいと、大学卒業後、市内の小学校の講師になった。しかし、平和教育のやり方は昔のまま。かつての自分のように被爆者を遠い存在と感じる子もいるのではないかと思った。「必要なのは、戦時中もあったありふれた日々や現代人と変わらない感情に触れること。共通点が見つからないと、戦争を『自分ごと』と受け止めるのは難しいのかもしれない」
思いついたのが被爆者の人生を描く本を書くことだった。時代背景を丁寧に説明し、日常の描写を細かく入れる。下平さんと出会って10年。被爆者が少なくなり、焦りも感じていた。執筆に専念するため、今年3月、学校を退職した。
松永さんは、下平さんと並ぶ2人目の主人公を自分の祖母・スエ子さん(84)にし、話を聞いている。これまでは家族にも被爆体験を話そうとしなかった。2人の異なる人生が1ページずつ見開きで並行して進み、1945年8月9日だけは同じ原爆に遭った体験を描く構成を、今は考えている。来年の出版をめざす。
いつもは感情を殺し、無表情で講話をする下平さんが、取材で日常の話を聞いた時に笑顔を見せた。恋の話をすると「そうそう、旦那さんは優しかったけんね」と表情が華やいだ。松永さんは言う。
「被爆者の人生は『悲しかった』『つらかった』だけじゃない。原爆の後も人生があって、喜びや幸せがあったから生きてこられた。それが、私たちの命につながっている」(田部愛)
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松永さんは本を作るための費用をインターネットのクラウドファンディング(
https://greenfunding.jp/lab/projects/2401
)で募っている。支援者には完成した本などを送る予定という。9月13日まで。