中国が外国の投資や技術を受け入れて経済を振興させる「改革開放」を1978年に始めて40年。世界2位の経済大国にのし上げた政策を語る時、日本企業が果たした役割は計り知れない。中でも切っても切り離せないのがパナソニックだ。ただ、その立場は教える側から追いつき追い越される側へと変わった。さらに今、中国で挑む側に変わろうとしている。
6月25日、北京市北東部のブラウン管工場跡地に「松下記念館」が開館した。展示は、パナソニック創業者で「経営の神様」と呼ばれた故・松下幸之助の生涯や哲学から始まる。設置の理由について、中国・北東アジア総代表の横尾定顕は「『松下』ブランドを武器にしたいという思いがある」と打ち明けた。
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「近代化をお手伝いいただきたい」。1978年10月28日、大阪府茨木市にあった松下電器産業(現パナソニック)のテレビ事業部を中国副首相の鄧小平(トンシアオピン)が訪れた。「なんぼでもねえ、お手伝いいたします」と幸之助。「21世紀はね、世界の繁栄の中心はアジアに来ると思う。中国と日本が中心になります」
中国を混乱させた文化大革命は76年に終わったばかり。経済の命運を誰もが測りかねているなか、幸之助は快諾した。その背景を、同社の中国事業を初期に手がけた青木俊一郎(日中経済貿易センター相談役)は「創業者は、繁栄による幸福について真剣に考えていた」と振り返る。
鄧は「今回の訪日で近代化とは何かがわかった」という言葉を残して帰国。直後の78年12月、中国共産党11期3中全会で改革開放を打ち出す。
松下の中国進出は本格的な外資受け入れの試金石となった。その後2回にわたり訪中した幸之助は鄧と会談。87年9月、北京市と合弁で、北京・松下彩色顕像管(BMCC)の設立にこぎつけた。
89年6月3日に第1号のブラウン管を生産したが、翌日に天安門事件が発生。銃声がとどろく中、従業員は徒歩で出勤し、生産を続けた。政府肝いりで育てた家電産業の中核・テレビメーカーに供給し、初年度から黒字を達成した。
松下は人材育成にも力を入れた。BMCC立ち上げに際し、松下は250人を日本に招いて生産技術を教えた。後にBMCC会長となる範文強は、その第1陣5人のうちの1人。87年12月から8カ月半を日本で過ごした。「中国企業の幹部にはBMCCが育てた人材も多い」と話す。
BMCCを皮切りに、松下は中国各地で家電の生産に乗り出した。「豊かさ」を求める中国人に、家電という概念を広めていった。
苦渋の家電、中国で再挑戦
だが、幸之助が「アジアの時代」と予言した21世紀に入り、様相は一変する。
パナソニックの家電は2010…