金融危機
W杯初出場決定に沸く朝に
1997年11月17日の朝は祝福ムードとともに明けた。マレーシア・ジョホールバルで前夜にあったサッカーW杯の最終予選で、日本代表が延長の末に劇的勝利をおさめ、初の本戦出場を決めた。
この日は休刊日で朝刊が発行されず、夕刊が初報。ところがその夕刊の1面トップを飾ったのは勝利の余韻とは対極のニュース「拓銀、都銀初の破たん」だった。
北海道拓殖銀行は不動産関連企業などへのバブル期の融資が焦げ付き、巨額の不良債権を抱え、資金繰りが行き詰まった。
その7日後、こんどは4大証券のひとつ山一証券が自主廃業に。さらに2日後に仙台の徳陽シティ銀行が倒れ、全国のほとんどの銀行で預金の取り付けが起きた。安田信託銀行の札幌支店では約2千人が順番を待った。ただ、どの報道機関も取り付けの連鎖を恐れてこうした騒ぎを報じなかった。
この破綻(はたん)ドミノの始まりは、4大証券に続く準大手と呼ばれた三洋証券の倒産だった。その発表があった日、私は数日前に取材した市場関係者のこんな言葉を思い出していた。「三洋がつぶれたら(金融機関が資金をやりとりする)コール市場で初のデフォルト(債務不履行)が起きる。大変なことになるぞ」と。
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30年を超す私の記者人生の大半は、日本経済がバブルの頂点から転げ落ちた平成という時代と重なる。最たるものが金融危機だ。当時、私は日本銀行記者クラブ詰め。銀行の頭取や日銀幹部の取材に明け暮れていた。1日3時間ほどの睡眠は「夜討ち、朝駆け」取材のハイヤーのなかでとった。
最初は甘くみていた。あの銀行もなんとか持ちこたえるだろう、当局がきっちり対応するだろう、危機はほどなく去るだろう――。だが破綻の連鎖は止まらない。日本はこのまま恐慌に陥ってしまうのか。そんなことを考えたのは後にも先にもあのときだけだ。
「絶対に書かないで」
三洋証券が会社更生法を申請したのは1997年11月3日。土日から続く三連休の最終日だった。経営陣が東京証券取引所で倒産を発表していた夜、そこから徒歩10分ほどの日本銀行本店でも、理事の本間忠世が会見に臨んだ。
私は、気になっていたことを質問することにした。市場取引を仲介する会社の幹部が「コール市場でデフォルト(債務不履行)が起きたら大変なことになる」と数日前に警告してくれていたからだ。
コール市場は、金融機関が日々の資金繰りの調節のためお金をやりとりする取引の基盤。担保はとらず、お互いの信用だけで一晩の貸し借りが成り立っている。
日銀は「この市場で絶対に貸し倒れは起こさない」と金融界に宣言していた。法制度があったわけではないが、こうした当局の言動が少しずつ銀行の「不倒神話」をつくりあげてきたのだろう。
ここで焦げ付きが起きたら日銀の信用問題だな。そう思いつつ関係者の警告を「初のデフォルト」とメモ帳に書き留めていた。
単刀直入に質問した。「コール市場で初のデフォルトになるようですが、どんな影響が?」
破綻(はたん)処理の問題を担当する本間は、私の質問にいつものように表情ひとつ変えずに答えた。「ごく一部の無担保コール(三洋が他の金融機関から借りたお金)で今後、債務の不履行が生じる可能性があります」「これからどんな金利形成や取引手法が出てくるか、きめ細かくウォッチします」
日銀はそれほど大問題だと受け止めていないのだろうか。そう考えながら会見場を出たら、広報課長が追いかけてきた。上階まで連れていかれ、会議室に招き入れられるや、こう言われた。
「コール市場のデフォルトを大…