国産ジーンズと言えば「発祥の地」とされる岡山県が有名だが、九州にもジーンズ作りを手がける人たちがいる。マニアが集まる店もある。
熊本県有数の温泉地として知られる山鹿市。ここで3人の男性が昨秋、新たなジーンズのブランドを立ち上げた。温泉の湯を仕上げの洗いに使うのが特徴だ。
雑貨店経営の前田昌宏さん(43)、旅館経営の平井英智さん(47)、イベント事業を手がける関口和良さん(39)。町おこしの活動で知り合った仲間だ。
きっかけは昨年5月。前田さんは銀行員の友人から、県内の縫製工場を紹介された。工場を見学させてもらうと、関心はそこで作られていたジーンズに向いた。新たなブランドのジーンズ作りを工場側に持ちかけると、話はとんとん拍子に進んだ。相談を受けた関口さんと平井さんも「面白い」と乗った。
独自の要素が欲しかった。前田さんは、のりを落とすため仕上げとしてジーンズを「ウォッシュ」する際、使われるお湯が①鉱物が入っている②弱アルカリ性③ぬるい、という3点を条件とするケースが多いのを知った。「山鹿の温泉と同じだ」。ウォッシュに使うことが決まった。
作業は平井さんが経営する「清流荘」を使い、数時間かけて温泉に浸す。その後、屋上に干して、乾燥させる。「肌触りが柔らかくなる」といい、客の反応も良いという。
ブランド名は「GAFAS NEGRAS(グラファス ネグラス)」。スペイン語で「黒縁めがね」の意味だ。もともと前田さんが愛用していたが、今は3人そろってかけている。
昨年9月以降、約300本売れた。3人は加盟店も募っている。3人が立ち上げた事業主体のグラファスネグラス協会で会長を務める平井さんは「ジーンズで全国から山鹿に人が来る流れを作りたい」と話す。
大分県玖珠町には、本業の傍ら1人でジーンズを作る男性がいる。地元にある伐株(きりかぶ)山の名前から「KIRIKABU JEANS(キリカブ ジーンズ)」のブランド名をつけた。
笠裕二さん(42)。釣りえさを作る家業に従事しながら、10年ほど前に作り始めた。当時、長男が生まれたばかり。笠さんは、市販されている子供服の見栄えに満足できなかった。実家にあったミシンで子供用のジーンズ作りに挑戦したが、頼りは知人からもらった型紙だけで、1本目は失敗した。
縫い方を独自に学んだ。まずは自分のジーンズ5本の糸をすべてほどいた。その過程を録画し、どこのパーツでどんな縫い方をしているかを確認。以降、それなりの形ができた。ミシン店から助言も受けた。
子どもが手作りジーンズをはいて保育園に行き、ちょっとした評判になった。頼まれれば「生地代くらいで」と知人に作っていたが、2014年にブランド名をつけて販売を始めた。
裁断、縫製、加工とすべて1人でこなす。作業のスピードは上がってきたが、1カ月で作れるのは多くても10本程度。常に数十本の注文を抱えている。今、夢見るのは、街でキリカブジーンズをはいている人を見つけること。「仕掛けたいことはたくさんある。少しずつやっていきたい」
大分市中心部には、マニアがジーンズを持ち込む店がある。時松敬士さん(50)、妻の弥栄子さん(56)が営む楽器店「時松工房」だ。
売り物のギターや修理のための工具に混じって、骨董(こっとう)品のような茶色のミシンが置かれている。ユニオン・スペシャル社(米国)が1950年代に製造した。デニムの裾上げ専用で、裾の裏側は愛好家が好む「チェーンステッチ」と言われる縫い方で仕上がる。
細長い輪っかがつながったような縫い目になるチェーンステッチに仕上げるミシンは他にもあるが、「アタリ」と言われる色落ちして裾にできる模様がひと味違うといい、県外から訪れる愛好家も少なくない。
ミシンを扱う弥栄子さんは「デニム製品にひきつけられる人たちが集まる店でありたい」と話す。
19世紀の米発祥、国産は岡山から
ジーンズは19世紀、ゴールドラッシュにわく米国で作業員向けに作られたのが始まりとされる。国内のジーンズメーカーなどでつくる日本ジーンズ協議会によると、国内での流通は第2次世界大戦後。米国の中古ジーンズが東京・上野のアメ横で出回った。
協議会の浅野友城専務理事(71)によると、1965年に学生服などを手がけていた岡山県のマルオ被服(現・ビッグジョン)が米国の生地で作ったのが国産ジーンズの「本格的な始まり」。70~80年代にジーンズを作る業者が増え、「作ればいくらでも売れる時代」を迎えた。
特に、学生服や作業着を作っていた地域でジーンズ作りが盛んになり、中国地方や東北地方などが産地になった。岡山・児島を代表するメーカー・ベティスミスの西山一二(かずじ)常務(66)によると、九州には熊本や長崎にメーカーの下請けの縫製工場があった。
生産量はバブル期がピークとされ、2007年は9500万点、12年は7350万点と減少。現在は6500万点程度と推計される。(小田健司)