現代の都市型社会に生まれる超常現象などのうわさや怪異譚(たん)が「都市伝説」といわれるようになったのは80年代末からという。この言葉を使い出した米国の民俗学者ブルンバンの著作が翻訳されたのがきっかけであった▲その昔、魔物と出合うような怪異は四つ角や橋、坂道などで起こるとされてきた。いずれもこの世と異界とが交差する場所だった。そんな民俗学者の話を聞けば、現代の都市伝説でしばしばマンションなどのエレベーターが怪異譚の舞台になるのも似たような心の動きのせいだと分かる▲そのエレベーターが扉の開いたまま突然動き出し、人の体を挟み込むなどということは「あってはならないこと」だし、「ありえないこと」のはずだった。ただ起こった出来事が常識では考えられぬ怪異であったとしても、こればかりはこの世ならぬ魔物のせいにするわけにいかない▲東京・芝のマンションで高校2年の市川大輔さんが急に動き始めたエレベーターに挟まれて亡くなった惨事をきっかけに、同じメーカーのエレベーターの不具合が次々に明るみに出た。奇怪なのは当のメーカーが短い追悼のコメントを出しただけで事故の背景説明を拒んでいることだ▲綱で人の乗る箱を上下させるエレベーターのアイデアは古くからある。だが、それが19世紀後半にようやく実用化されたのは、緊急時に箱を止める安全装置が発明されたからだという。今度の事故はその技術の基本部分の底が抜けてしまったわけだ▲すでに関係者の刑事責任追及にむけて警察は強制捜査に踏み切った。野球に打ち込んでいた少年の未来を突然奪い去った怪異の正体は、口伝えの都市伝説にではなく、捜査報告や再発防止策の中にはっきりと書きとめなければならない。
毎日新聞 2006年6月8日 0時08分